阪急百貨店の洋家具売り場に勤務していた村上実は、上司から電鉄本社の佐藤博夫専務のところへ行くように命じられた。昭和10年10月下旬のことである。もちろん面識はない。入社4年目の村上は恐る恐る部屋を訪ねた。
「君が村上君か。うちの社も職業野球のチームを作ることになった。ご苦労だが君、ひとつそれをやってくれないか」
呆然(ぼうぜん)とその場に立ち尽くす村上に佐藤は1通の電報を見せた。それはワシントンに滞在中の小林一三から副社長の上田寧に宛てられた電報だった。
『大毎に相談して北口運動場併に職業野球団設置、至急計画願ひ渡し、返事待つ』
かつて「電鉄リーグ」の結成を呼び掛け徒労に終わった一三だったが、それでも「いつかはプロ野球の時代が来る」と確信し、ひそかに球団結成の青写真を描き、西宮北口に専用球場建設のための用地買収まで進めていた。これが世の先、常に人の先を見る一三のすごさである。
「小林会長が帰国する来年2月までに選手や監督の目鼻をつけよ」。佐藤からの指令だった。入社4年目の村上になぜ、そんな〝大役〟が命じられたのか。
明治39年生まれ、当時29歳。慶大出身。慶大時代は野球部に所属し、名将腰本寿監督のもとでマネジャーを務めた。同輩に宮武三郎、山下実、後輩には水原茂など慶応黄金期を築いた錚々(そうそう)たるメンバーがおり、大学野球関係者への人脈が広かった。余談だが村上はその後、球団代表に就任。25年間、球団経営に携わった後、能勢電鉄の相談役も務めた。
村上はすぐさま読売新聞社に正力松太郎を訪ねて加盟を申請。受理されるや一三の指示通り、大阪毎日新聞社の奥村信太郎専務に球団編成の教えを請うた。
「豪快で洗練されたチームを作る。そのためにはまず、日本最強のものを作り得るに足る選手を集める。第2に選手は技術以外にも、できる限り人物を選ぶ」
方針が固まると、全国の中学、大学、実業団からめぼしい選手たちのリストを制作した。
宮武(投手、慶大出)、伊達正男(投手、早大出)、山下(内野手、慶大出)、鶴岡一人(内野手、法大)など。
当然、名古屋の新聞社や阪神も選手獲得に動き出している。当時、六大学野球でスタープレーヤーだった早大の三原脩も、大学を中退。大日本東京野球倶楽部と契約を済ませ、第1号選手として入団していた。(敬称略)