勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(26)

山は動いた ベーブ来日!職業野球熱 一気に 

ホームラン王、ベーブ・ルースの来日は空前の大リーグブームを呼んだ
ホームラン王、ベーブ・ルースの来日は空前の大リーグブームを呼んだ

■勇者の物語(25)

昭和10年10月25日、大阪毎日新聞社のワシントン支局長が、同地に滞在中の小林一三の元を訪れ、同社・奥村信太郎専務からの電報を手渡した。その日のことを一三は日記の中にある外遊記『日々是好日』にこう綴(つづ)っている。

「十月廿五日 金 快晴 大毎支局長の栗山君来訪。本社からの電報によれば『阪神が職業野球団を編成することに決まったが、阪急もそれを実行するならば、出来る丈、大毎は御尽力するから』という御注意であった。阪急がかねがね計画して土地も買収契約済の西宮北口にグラウンドを作り、職業野球団を設けるといふ方針が漏れたのではあるまいか。それが為に阪神が急に着手したものとすれば、阪急としても今更内密にしても仕方ないと思ふから、上田君(副社長)に電報した」

計画が漏れたわけではなかった。当時、日本では空前の大リーグブームが起こっていた。9年11月に本塁打王ベーブ・ルースを中心としたアメリカンリーグの選抜チームが来日し、約1カ月にわたって日本各地を転戦。計18試合を消化してその間、ルースの13本を含む47本のホームランを放つなど、大リーグのパワーのすごさを見せつけたのだ。

仕掛けたのは読売新聞第7代社長の正力松太郎。当時、言論第一のオピニオン・ジャーナリズムが主流だった新聞界で芸能欄や婦人欄を強化。さらに科学や麻雀といった読者の喜びそうな企画をどんどん取り入れ、〝大衆路線〟で販売部数を飛躍的に伸ばした。そんな正力が昭和に入ってさらに人気の高まった「野球」を見逃すはずがない。6年に第1回日米野球大会を開催。そして9年が2度目の招聘(しょうへい)だった。

日本選抜チームは学生ではなく、六大学のOBや中学出身者で構成された。ベーブ・ルース人気は沸騰。「日本にも職業野球団を!」という機運が盛り上がるや正力は12月26日、日本選抜チームを母体にした職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成。これが読売ジャイアンツの前身である。正力は翌10年、東京の電鉄会社や名古屋の新聞社へ球団設立を呼び掛け、関西では甲子園球場を持つ阪神電鉄に声をかけた。

「阪神が球団結成へ動き出した。名古屋や東京でも数社が名乗りをあげ、早ければ来春にもリーグ戦が開幕する」

山が動いた-。奥村専務からもたらされた情報に一三は小躍りしたに違いない。大正5年1月、河野たちに職業野球構想を打ち明けてから20年の歳月が流れていた。(敬称略)

■勇者の物語(27)