勇者の物語

電鉄リーグ 逸翁の構想、まだ五十歩先をいく 虎番疾風録番外編25

阪急グループの創業者・小林一三
阪急グループの創業者・小林一三

■勇者の物語(24)

「宝塚運動協会」が解散しても小林一三の「職業野球」への思いが消えたわけではなかった。それどころか、さらにもう一歩踏み込んだ『電鉄リーグ』構想となって表れた。

一三は動いた。昭和8年に各電鉄会社に働きかけ、大阪の毎日新聞社にも協力を依頼。そして10年、雑誌「改造」の新年号に『職業野球団の創設』と題してこんな文を寄稿した。

「グラウンドを持つ電鉄会社、例えば東京からは京成電車、東横電車。関西ならば阪神の甲子園、阪急の宝塚、京阪の寝屋川、大阪鉄道の何とかという球場。立派な野球場を持つこれらの電鉄会社が各社専属のグラウンドで毎年、春秋2期リーグ戦を決行する。そうして優勝旗の競争をする」

もう夢物語ではない。話はどうやれば経営がうまくいくか-の具体案とその将来像まで示された。

「各電鉄会社は相当の乗客収入と入場料を得るものであるから、野球団の経営費を支出し得てあるいは余剰があるかもしれない。野球場の位置によっては入場者に非常に相違があるので、その収入金の分配について公平に決算し得る方法を考慮する必要がある。それさえ決まれば設立は難しくないと思う。

仮に私の理想のような球団が関西に生まれて、その優勝試合が年中行事となる場合には、東京にも必ず同一の野球団ができて、そこに初めて東西の優勝試合が行われることになると思う。

選手は広く一般から公募して養成すれば-といわれるが、私はそうは思わない。やはり全国中学校野球大会や各大学の球児たちから集めるべきである。その場合、各電鉄会社が社員待遇でしかも専門的な教習と競技を実行するものとせば、よい球団ができ上るものと信じている」

残念ながら小林のこの「電鉄リーグ」構想は、各社の合意を得られなかった。頭では魅力ある構想-と分かっても、一三の発想は彼らのまだ〝五十歩先〟を進んでいたのである。

運命とはおもしろい。小林が大阪で「職業野球」実現に向けて孤軍奮闘しているとき、東京にも職業野球に目をつけている人物がいた。その人こそ読売新聞の第7代社長。「新聞界に革命をもたらした」といわれる正力松太郎である。明治18年生まれ。6年生まれの一三よりひとまわり年下の酉年同士。2人によってその後、日本のプロ野球は〝鬨(とき)の声〟を上げることになる。(敬称略)

■勇者の物語(26)

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