勇者の物語

宝塚運動協会 昭和金融恐慌 解散に追い込まれ 虎番疾風録番外編24

宝塚運動協会の選手たち
宝塚運動協会の選手たち

■勇者の物語(23)

阪急電鉄の庇護(ひご)のもと「宝塚運動協会」として再出発した河野安通志たちはよみがえった。施設が充実しただけでなく、選手たちの月給も15円から45円に引き上げられたという。

大正13年3月、地元の関大と初試合を行い4-1で快勝。4月には関西遠征中の立教大と宝塚球場で対戦。試合は1-2で惜敗したものの、この一戦の効果は大きかった。当時はまだ職業野球を「商売野球」と呼んで蔑(さげす)む声も多く、日本運動協会時代には早大以外の大学からはソッポを向かれていた。それが、東京六大学(当時は五大学)の立教大と試合を行い互角に戦ったことで、世間の見る目が変わったのだ。

対戦相手にも事欠かなかった。当時の関西は野球熱が盛んで、多くのアマチュアやセミプロのチームができていた。「神戸スター倶楽部」や「ダイヤモンド倶楽部」、そして「大毎野球団」…。

大毎野球団は大正9年に大阪毎日新聞が販売拡張事業の一環として結成したセミプロ球団。当時の学生野球のスターたちを一堂に集めたビッグクラブ。

主戦投手はのちに都市対抗野球で大会を盛り上げた選手、指導者に贈られる「小野賞」として名前が残る慶大出身の小野三千麿(みちまろ)。捕手は小野とバッテリーを組み、主将兼4番として慶大の春夏連続優勝(8年)に貢献した森秀雄。さらに腰本寿(ひさし)(慶大)、岡田源三郎(早大)と錚々(そうそう)たる顔触れ。「宝塚-大毎」戦は人気を博した。それでも河野たちは理想を見失わなかった。「勝って驕(おご)らず、ますます自重自戒して、自らを切磋琢磨(せっさたくま)するように」と常に選手たちに課していたという。

〝暗雲〟が覆った。当時、日本は第一次世界大戦の大戦景気から一転、戦後不況に陥っていた。さらに関東大震災の処理のための「震災手形」が多くの銀行に不良債権として残っていた。不況に金融不安…。昭和2年3月、ついに中小銀行の取り付け騒動が起こった。「昭和金融恐慌」の始まりである。

倶楽部チームや実業団チームが次々に潰れていく。好敵手だった大毎野球団も恐慌の大波にのみ込まれて解散。宝塚運動協会にとっても好カードを失った損失は大きかった。親会社の阪急電鉄も支え切れずついに4年7月に解散に追い込まれた。

選手の多くは阪急電鉄に入社したという。野球をやめた後、社会人として立ちゆくために-と、河野が選手たちに英語や商業簿記を教え込んでいたおかげである。(敬称略)

■勇者の物語(25)

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