勇者の物語

逸翁、プロ第1号チーム救う 虎番疾風録番外編23

関東大震災で壊滅した東京・銀座付近=大正12年9月1日
関東大震災で壊滅した東京・銀座付近=大正12年9月1日

■勇者の物語(22)

大正12年9月1日、午前11時58分ごろ、ゴ、ゴ、ゴーッという地鳴りとともに大きな揺れが南関東を襲った。マグニチュード7・9と推定される巨大地震「関東大震災」である。

街は崩れ、都心は火災で跡形もない。死者・行方不明者10万5000人を超える未曽有の大災害となった。河野安通志(あつし)たちの「日本運動協会」も大きな被害を受けた。芝浦のグラウンドには大きな地割れが起こり選手宿舎も倒壊。さらに芝浦球場は政府に接収され救援物資配給の基地となり使えなくなってしまった。

結成当初からけっして経営は楽ではなかった。高い理想を掲げたもののチームは軽視され、早大以外の一流チームとの試合ができず、赤字が続いていた。そこへ大震災。政府も東京市も接収した芝浦球場を返す気はない。彼らには解散の道しか残されていなかった。

「無理をすればまだ2年は続けることができたと思う。だが、見込みのない事業を継続しては多数の株主や選手たちに迷惑をかける。ここに涙をふるって解散と決した次第です」

13年1月の総会で合資会社「日本運動協会」は解散を決議。記者会見で河野は悔し涙を流した。

捨てる神あれば拾う神あり-。春まだ遠い厳寒の2月、1人の男が河野を訪ねた。阪急電鉄が大正11年6月に宝塚に建設した大スポーツ施設「宝塚大運動場」の経営主任・風間健治である。風間は小林一三のメッセージを伝えた。

「協会チーム全員を引き連れて宝塚に来ないか」

河野は飛びつきたい思いを抑えた。興行主体のチームになることを恐れたのだ。野球さえやれればそれでいい-というものではなかった。そして、彼らが掲げていた理念を風間に語った。

「野球の技術だけでなく、野球を通して人格、学識、フェアプレーの精神を選手たちに植えつけることで、日本の野球を正常な形で発展させたい」

一三は河野たちの思いをすべて受け入れて迎えた。こうして2月25日、日本のプロ野球としては3番目の球団「宝塚運動協会」が設立されたのである。

本拠地は大運動場内にある「宝塚球場」。内野はコンクリート席と芝生席。外野にはスタンドはなかったが、最大2万9000人の観客が収容できた本格野球場である。クラブハウスに選手合宿所も完備。まさに至れり尽くせりの〝救いの手〟だった。(敬称略)

■勇者の物語(24)

会員限定記事会員サービス詳細