勇者の物語

プロ球団第1号 日本運動協会「模範となれ」 虎番疾風録番外編22

日本運動協会の選手たち
日本運動協会の選手たち

■勇者の物語(21)

日本で最初のプロ野球団は「巨人」と思っている読者の方も多いだろう。巨人の前身である「大日本東京野球倶楽部」が結成されたのは昭和9年。だが、それより14年前の大正9年に「日本運動協会」が結成されており、これが第1号。

大正期、野球は学生野球を中心に飛躍的に発展を遂げた。一方で学生たちの中には人気に溺れ、学業をおろそかにしてスターを気取る者さえ現れた。そうした中、「野球選手はかくあるべし」の範を示す専門の野球団を作ろう-という機運が盛り上がった。そして結成されたのが「日本運動協会」である。

設立の中心人物は早大野球部出身の河野安通志(あつし)、押川清、橋戸信の3人。押川はのちに名古屋軍や後楽園イーグルスの創立に携り、橋戸は東京日日新聞(現毎日新聞社)に入社し都市対抗野球開催に尽力した。そして河野は4年前に小林一三の職業野球構想に「時期尚早」と答えたあの河野である。運命とはおもしろい。

「やがては米国の職業野球に対抗すべく、遠大なる望みを持って決意」

河野たちの目標は高かった。事業目的には野球の試合だけでなく、グラウンドの設計、工事。スポーツ用品の製造販売まで手掛ける-とある。

模範となれ-の理念通り、選手への教育は厳しいものだった。河野は野球理論だけでなく英語や商業簿記、行儀やテーブルマナーまで教え込んだ。選手の外出は許可制。外出時には着物に袴(はかま)、鳥打ち帽-と決められていたほど。それは「年を取り野球から離れるようになったとき、社会人として生活できるように」という配慮からだ。

彼らの対戦相手はアマチュアのクラブチームや学生チーム、そして大阪の毎日新聞社が持っていたセミプロの「大毎野球団」。ときには大陸遠征にも出かけた。当時、協会の好敵手が、奇術の松旭斎天勝一座が作った「天勝(てんかつ)野球団」。興行先で地元のチームと試合を行い、一座の宣伝も兼ねていた。メンバーは慶応や明治、立教といった大学出身者が多く相当な力量があり、日本で2番目のプロ野球チームといわれている。

順風満帆と思われた。だが、大正12年9月1日、午前11時58分、大きな地響きとともに河野たちの「夢」が一瞬にして崩れてしまうのである。(敬称略)

■勇者の物語(23)

会員限定記事会員サービス詳細