新型コロナウイルスの感染拡大でにわかに注目を浴びるようになった「スペイン風邪」。約100年前に世界で大流行したが、国内ではこれが決定打となり消えた鉱山がある。福井県大野市にあった面谷(おもだに)鉱山だ。主に銅を掘り出し、最盛期には周辺で労働者やその家族ら3千人が暮らした。跡地に残る石碑には、感染が広まったきっかけは「慰安会」とあり、現代の新型コロナ禍にも通じるものがある。
最大3千人の鉱山町
福井県大野市の山あい、九頭竜湖から山道を南に下ると面谷鉱山の跡地があり、そこに石碑が立っている。
「鉱山を離れた人たちの子供が建てたと聞いているが、いつごろなのか正確な時期はわかりません」。同市教委文化財課の主任学芸員、田中孝志さんはこう教えてくれた。
面谷鉱山の鉱脈が発見された時期には諸説あるが、開発が本格化したのは幕末以降。当時の大野藩が藩政改革で鉱山運営に乗り出し、財政再建に活用した。
明治21年、三菱合資会社に運営が移り、近代化が進んで最盛期を迎える。「近代設備が整うと、長期間にわたって同じ鉱山で働けるようになり、労働者は家族とともに定住し、集落が形成されるようになった」(田中さん)。そうして面谷鉱山の住民は2千人になり、繁忙期には最大3千人に膨らんだ。いち早く電気や電信が引かれるまでに発展した。
「野天で仏を火葬」
そんな町にスペイン風邪が押し寄せたのは大正7(1918)年10月だったと、石碑には刻まれる。
スペイン風邪は同年から数年にわたり流行し、日本国内では約2300万人が感染、約38万人が死亡したとされる。全世界の死者は4千万人とも、5千万人とも言われている。
石碑によると、町で感染が広まったきっかけは「劇場で家族の慰安会が催され」、多くの町の人が集まったことにあったようだ。町の医院から「悪性の感冒が流行しているので十分注意するよう話があった」のだが、結果的に当時1千人ほどの住民が次々に感染した。
医師、薬剤師、看護師、手伝いの人たちをあわせて5人という町の医院では手当てや治療もままならず、1カ月ほどの間に死者は90人以上に及んだ。石碑は「ある家では父を失い、ある家では母を失い、又ある家では子供を失い、実に悲惨な状態だった」と記す。