勇者の物語

小林流仕掛け ライバル阪神電鉄を焦らせる 虎番疾風録番外編21

「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催された豊中球場
「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催された豊中球場

■勇者の物語(20)

「職業野球構想」は封印したが、小林一三の飛びぬけた嗅覚は、野球熱の高まりをしっかりと感じ取っていた。それが大正4年8月に始まった「全国中等学校優勝野球大会」(現在の全国高等学校野球選手権大会)の開催である。

もちろん自然に高まるのを待っていたわけではない。「こうすればきっと成功するという計画を空想する」の言葉通り、そこには小林流の仕掛けがあった。

明治に導入された「野球」は大正時代に入って発展期を迎えた。中学校でも全国各地20カ所で大会が開かれるなど高まりを見せていた。大正2年に豊中球場を建設した箕面有馬電気軌道は、一三社長の指令をうけ、運輸課の吉岡重三郎(後に東京宝塚劇場社長)が4年6月に、豊中球場を使用した「全国大会開催」の計画を大阪の朝日新聞社へ持ち込んだのである。話はとんとん拍子に進み8月18日に第1回大会が開催された。翌5年に第2回大会-。

ところが問題が起こった。当時から遠征費は出場校もち。大会側は会期を短縮して出場校の負担を減らす必要に迫られた。打開策は複数のグラウンドで試合をすること。1面しかない豊中球場では無理だった。これに応じたのが阪神電鉄だ。兵庫県武庫郡鳴尾村の阪神競馬クラブの競馬用トラック(1800㍍)の内側にグラウンドを2面設置することで大会誘致に成功したのである。

6年の第3回大会から9回大会まで鳴尾球場で行われた。だが、ここでまた問題が起こった。鳴尾球場は競馬のトラック内にあるため常設のスタンドが作れない。人気が高まるにつれ、仮設のスタンドでは大観客を収容できなくなっていたのである。

もっと大きな球場を-。そうして13年甲子年(きのえねのとし)の8月に出来上がったのが「阪神甲子園球場」である。両翼110㍍、中堅120㍍、左右中間128㍍、5万人収容。実は阪神電鉄がこのとてつもなく広い球場を建設するに至った裏には、阪急電鉄(大正7年に社名変更)の動きがあったといわれている。

阪急はかねてレジャー化を進めていた宝塚に大正11年、約3万人を収容できる「宝塚球場」を建設した。このままではまた、阪急に再び大会を奪われる…。阪急関係者によれば、これが「阪神さんの新球場建設計画に拍車をかけたのでは」という。(敬称略)

■勇者の物語(22)

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