大正5年1月、豊中球場に早大野球部の指導者を訪ねた小林一三はこう切り出した。
「アメリカでは職業野球が盛んなようだね。日本でも野球の人気がずいぶん高まっているようなので、職業野球を興してみては-と思うのだが、どうだろう。君たちの意見を聞かせてほしい」
早大の指導者たちは驚いた。まさか、日本で職業野球を-と考えている人がいるとは思わなかったからだ。
一三は単なる〝夢物語〟ではなく、実業家としての具体的なプランを彼らに示した。
「まず、大学卒業者を採用して、2年間だけやらせてみる。もしダメならこの事業からただちに撤収する。若い青年なら出直しがきくだろう」
このとき、一三に意見を求められた指導者の中にいたのが河野安通志(あつし)=当時(32)=である。
横浜で育った河野は旧制横浜商業高校から明治学院に入学。野球をやりたい一心で早大に進み、創部3年目の野球部に入部。エースとして明治30年代後半の〝早大黄金期〟を築いた。同38年、早大がアメリカ遠征にでかけ、米国西海岸を転戦したとき、河野はその全26試合のほとんどに登板。現地の米国人から「アイアン・コーノ(鉄腕河野)」と呼ばれた。
今回、一三が彼らに意見を求めたのも「米国の野球事情に詳しい」という理由からであった。
一三の問いに河野たちは「時期尚早」と答えた。アメリカ遠征中に「ワインドアップ投法」や「チェンジアップ」を習得した河野は帰国後、後輩たちに伝授した。河野たちには日本の野球はまだ未熟であり、日本の社会に職業野球を育てる土壌がまだ整っていない-と映ったのである。
河野たちの話を聞いた一三は「職業野球計画」を胸にしまい込んだ。五十年史には「その楽しみを自らの夢の中に収め、機の熟するのを待った」と記されている。しっかりと時節を見極める目。自分の発案に酔わず、時期尚早とみれば、けっして実行に移さない決断力。それが逸翁のすごさなのだろう。
小林一三が残した多くの名言の中のひとつにこんな言葉がある。
『百歩先の見えるものは狂人扱いにされる。五十歩先の見えるものは、多くは犠牲者となる。十歩先の見えるものが成功者であり、現在が見えぬのは落伍者である』
心に響く言葉である。(敬称略)