巨人に移籍した加藤秀司は燃えていた。
「中畑との競争や。負けたらオレのポジションはない。試合に出れるか出られへんか。やりがいある」。だが、現実は厳しかった。中畑清からポジションを奪えず「代打」にあまんじ、わずか68試合に出場しただけ。打率・219、3本塁打、13打点に終わった。
昭和61年は王貞治監督の3年目。3位、3位と続いていただけに、何が何でも優勝しなければ―と必死になっていた。
「練習でも厳しかったな。20代の選手もベテランも関係なし。まったく〝優遇〟もなしや」
王監督は「オレができたんだから、君たちにできないわけがない。こうやって打つんだ」とよく自ら打撃ケージに入り、手本を見せたという。
「けど、それは王さんやからできるんで、みんな自信なくすから勘弁して…と思ったな」
憧れて入った巨人だが、加藤が思っていた球団ではなかった。厳しい生活規律。他の球団では許されても巨人ではダメなことがいくつもあった。マスコミとの付き合い方も指導されたという。担当記者にも序列が付けられており、話してもいい記者とそうでない記者に区別されていた。
「ホンマはそれが正解なんやろうけど、オレには合わんかった」
2000本安打にあと13本と迫っていたが、加藤は「引退」を決意した。王監督から「それはもったいない。ロッテに移籍の話もあるし、考え直しては」と勧められたが「いや、もう諦めました。引退します」ときっぱりと断った。そして、恩師と仰ぐ西本幸雄へ報告するため西本宅を訪ねた。
「引退? 2000本安打はどうするんや。あと13本やろ。諦めた? あかん、秀よ、もったいない。もったいな過ぎるで。ちょっと待っとれ」
奥へ引っ込んだ西本はすぐさま南海の杉浦忠監督に電話し、加藤の移籍を決めてしまった。
「西本さんの話を断るわけにはいかんかった。王監督には不義理をしてしもた。オレの南海移籍は王さんの顔に泥を塗ったことになるからな」
――なんで、きちんと王さんに頭を下げなかったんです?
「そこや。オレが悔いとるんは…」
加藤は巨人を自由契約となって南海に移籍した。秀さんの心にいまでも残る〝後悔〟である。(敬称略)