「会いたい」「がんばる」-。5日に87歳で亡くなった横田滋さんは、最期まで、家族の励ましに応えたという。平成30年4月に体調不良で入院し、晩年は意識がはっきりしない時期もあったが、娘のめぐみさん(55)=拉致当時(13)=と元気な姿で再会しようと命の炎を燃やし続けた。
滋さんにとって、救出運動は身を削られるような決断と忍耐の連続だった。9年1月、めぐみさん拉致の事実が判明すると、家族が「危険だ」と躊躇(ちゅうちょ)する中でただ一人、実名の報道に応じる決断をした。「実名を出さないと意味がない」。匿名では信憑(しんぴょう)性が薄く、世論に伝わらないと考えたからだった。
同年3月に結成された被害者の家族会では代表に就任。妻の早紀江さん(84)ら家族と全国を回り、救出を訴えた。拉致自体を信じてもらえない時期もあり、署名用紙をのせたボードを通行人にたたき落されたこともあった。
だが、めぐみさん拉致事件が社会に浸透し始めると、署名は1年で100万筆を超えた。滋さんの娘への深い愛情と、ひたむきな姿は救出運動の象徴となり、拉致解決を求める声を全国に広げる大きな契機になった。
19年11月、血液の難病や体力の衰えなどを理由に代表を退いた後も、スポークスマン的存在として全国の集会や講演に出席。講演回数は1300回を超えた。
体調を心配した周囲が控えるよう言っても、依頼を断ることはなかった。「拉致事件を解決に導く最大の原動力は世論だ」と信じていたが、晩年はパーキンソン症候群のため体が硬直していった。思うように言葉が出なくなり、集会や記者会見などへの出席を見送ることが増えていった。
体調がすぐれなくてもできる限りの活動を続けた。全国に配信するビデオメッセージを作製。言葉を出やすくするため、リハビリを兼ねた筋力トレーニングと発声練習をしてから、収録にのぞんだ。「もう止める?」。汗ばみ苦しそうな姿を早紀江さんが心配しても「大丈夫」とほほえんだ。