モスクワ五輪ボイコット40年 JOCの苦い経験、問われる存在

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 旧ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、日本が1980年モスクワ五輪をボイコットしてから今年で40年になる。当時の選手強化は国の補助金なしに成り立たず、先に不参加を決めた米国に追随する政府の意向をスポーツ界は無視できなかった。日本オリンピック委員会(JOC)が不参加を決議したのは40年前の5月24日だ。「幻の代表」を生んだ悲劇を繰り返さないため、JOCは経済的な自立を掲げて後に独立したが、近年は選手強化の「国策化」が進み、国との距離はむしろ縮まっている。

 ■246人無念の涙

 モスクワ五輪に派遣される予定だった代表選手団246人(選手182人、役員64人)が無念の涙をのんだ。

 発端は旧ソ連による79年のアフガニスタン侵攻だった。時代は東西冷戦の真っただ中。米国は各国に五輪ボイコットを呼びかけ、80年4月に不参加を決めてしまう。日本政府も西側陣営の一員として、不参加へと傾いていった。

 柔道男子の山下泰裕やレスリング男子の高田裕司ら金メダル候補は、4月の集会で参加を涙ながらに訴え、JOCは一度は「原則として参加する」と申し合わせた。五輪憲章は各国・地域オリンピック委員会を「自主独立団体でなければならない」と定めており、五輪参加の可否の決定はJOCの専権事項だった。

 しかし、日本政府から「派遣することは望ましくない」との見解を伝達された日本体育協会(現日本スポーツ協会)は、参加反対を決議。日本体協の歴代会長の多くは政治家が務めており、その中の特別委員会に過ぎないJOCも、政治の強い影響下にあった。

 結局、5月24日の臨時総会の投票は「参加すべし」13人、「不参加もやむを得ない」29人、棄権2人の反対多数で決着した。選手らはひのき舞台に立つことさえ許されず、「幻の五輪代表」となった。

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