佐々木朗希寄稿 激球一閃

大震災で肉親失う 支えてもらった感謝忘れない

東日本大震災の犠牲者を悼み、チームメートとともに黙祷する佐々木朗希(中央)=3月11日、ZOZOマリンスタジアム(今野顕撮影)  
東日本大震災の犠牲者を悼み、チームメートとともに黙祷する佐々木朗希(中央)=3月11日、ZOZOマリンスタジアム(今野顕撮影)  

プロ野球選手としては初めて3月11日を迎えました。今まではあまり自分から震災の話を切り出すことはありませんでしたが、立場が大きく変わって、これからは自分の口から、いろいろなことを発信していかなくてはいけないと思っています。

東日本大震災があった日、私は岩手県陸前高田市の小学校にいました。3年生の時でした。校庭まで津波が押し寄せてきました。みんなで必死に高台まで逃げたのを覚えています。

母は別の場所で仕事をしていたので無事でしたが、津波で自宅が流され、父と祖父母を失いました。そして日常の全てを失いました。

避難所で水もなければ、お風呂にも入れない日々を過ごしました。その時に普通のことが普通ではないということを知りました。ご飯を食べること、お風呂に入ること、野球をすること。当たり前に思えたことの全てが当たり前でないことを痛感しました。今までの普通だった毎日がいかに幸せなことだったのかを知りました。

生まれ育った陸前高田の街は一変しました。自宅、自転車で1周をした街、山の中に作った秘密基地…。思い出の全てが流され、消えました。

老人ホームに作られた避難所での生活を余儀なくされましたが、4年生の時に母方の家族がいる岩手県大船渡市に引っ越しました。生まれ育った場所から転校するのはものすごくつらかったのを覚えています。

そんな中で支えとなったのが野球でした。避難所でもボールを見つけてキャッチボールをしました。グローブもなかったので、人から借りました。野球に没頭しました。

あの頃のことを思い返すと、こうしてプロ野球選手として野球ができる日々を本当に幸せに思います。ただ今あることは当たり前ではありません。だから毎日、目の前の時間を大切にするようにしています。生きている身として亡くなった人たちの分も一生懸命に生きていかないといけないと思っています。

最後に日本全国、そして世界の人々に支えてもらったことへの感謝の気持ちを私は今後も忘れません。これからはプロの1軍の舞台で活躍することで支えてもらった方々に恩返しをして、東北の皆さまに明るい話題を提供できる存在になれるよう頑張ります。

(月1回程度随時掲載)

佐々木朗希

ささき・ろうき 平成13年11月3日生まれ、岩手県陸前高田市出身。23年に東日本大震災で被災し、同県大船渡市に移った。同県立大船渡高3年生だった31年4月に球速163キロをマーク。夏の岩手大会では花巻東高との決勝に登板せず敗れた。高校日本代表としてU18W杯に出場。190センチ、85キロ。右投げ右打ち。背番号17。

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