【沖縄取材の現場から】再び想定外の聖火リレー - 産経ニュース

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【沖縄取材の現場から】再び想定外の聖火リレー

那覇飛行場に到着後、歓迎式典会場に向かう聖火リレー。看板には「琉球政府」の文字 =1964年9月7日、現在の那覇市
那覇飛行場に到着後、歓迎式典会場に向かう聖火リレー。看板には「琉球政府」の文字 =1964年9月7日、現在の那覇市

 7月24日に開幕予定だった東京五輪・パラリンピックは新型コロナウイルスの影響を受けて1年の延期となり、これに伴い3月26日にスタートするはずだった聖火リレーも中止となった。まさに異例の事態だが、実は昭和39年の東京五輪聖火リレーでも「想定外」の事態が起こっている。舞台は米軍統治下にあった沖縄だった。

台風で狂った予定

 沖縄に来るはずの聖火は、予定の39年9月6日になっても到着しなかった。10月の五輪開幕を前にギリシャで採火され、日本にたどり着くまでアジアの11カ所を中継し、日本での聖火リレーは沖縄で始まることになっていた。ところが、香港から台湾に飛ぶ予定の専用機が台風の影響で飛べなくなった。

 聖火は1日遅れで沖縄に到着することになったが、五輪組織委員会は「本土での予定を遅らせることはできない」として、沖縄での日程を短縮しようとした。当時、琉球政府行政主席を退いていた当間重剛氏は、回顧録で、日程変更に猛反対したと書き残している。当間氏は沖縄での聖火リレー実行委員長を務めていた。

 「日本の敗戦がしわ寄せされているのが沖縄の現状なのに、県民待望の聖火リレーまで沖縄にしわ寄せされるのは耐えられない」

 当間氏の怒りに直面した組織委は、聖火を「分火」するという苦肉の策を取る。1つは鹿児島県に移送し、もう1つは沖縄で予定通りのコースをたどった上で福岡県で合流することにしたのだ。

 当間氏は学生時代にボートに夢中になり、行政主席時代もスポーツ振興に熱心だった。聖火リレーに関わったことはさぞや自慢だろうと思いきや、家族にその思い出を語ることはなかったようだ。娘のみえさんは「父から聖火リレーの話を聞いたことがない。姉に聞いても覚えていないらしい。日程短縮に父が怒ったという話も、今回の東京五輪が決まった後に知った」と語る。

 琉球政府計画局がまとめた聖火リレーの記録には、分火について「何だか親に捨てられた子供のようで、淋しささえ覚えた」と書かれている。聖火リレーについて多くを語らなかったのは、当間氏もまた「淋しさ」を感じていたからかもしれない。

奇妙なスピーチ

 当時の沖縄では、祝日以外に日の丸を公共施設に掲揚することは禁止されていた。沖縄で聖火リレーが行われた39年9月7~10日は祝日ではなかった。

 後に沖縄県知事となる屋良朝苗氏は回顧録で、34年末に日の丸を認めるよう要請した際の思い出をつづっている。屋良氏に対し、琉球列島米国民政府高等弁務官のドナルド・ブース氏は「国旗は行政権のシンボルだ。星条旗を立てさせてよいのだが、それをしないのはせめてもの慈悲だ」と言い放った。これに対し、屋良氏は「日の丸は民族のシンボルだ。沖縄には日本の潜在主権があるのだから立てても良いはずだ」と反論したという。

 米国民政府は結局、聖火リレーの沿道を埋め尽くした人々が日の丸を振ることを黙認した。とはいえ、沖縄が本土復帰したのは、それから8年後だ。聖火が沖縄に到着した日に那覇市の奥武山陸上競技場で行われた歓迎式典で、当時の高等弁務官、アルバート・ワトソン氏は奇妙な演説を行った。

 「国家間の武器なき戦いの一種であるかのような狂信的排外主義の雰囲気をオリンピックゲームに持ち込む近年の傾向を残念に思う」

 ワトソン氏は、東京五輪と聖火リレーを契機に、沖縄で愛国心が燃え上がることを警戒していたのだろうか。あれから半世紀以上がたった今、沖縄では堂々と日の丸を振ることができ、熱狂に水を差すようなスピーチも行われないはずだ。またもや予定変更を迫られた沖縄の聖火リレーは、56年前と今の落差を印象付けている。

(那覇支局長 杉本康士)

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