文芸時評

4月号 民主主義を守るために 早稲田大学教授・石原千秋

演出家の野田秀樹さん
演出家の野田秀樹さん

野田秀樹が「意見書 公演中止で本当に良いのか」を公式ホームページに掲載したのは3月1日のことである。この時点ですでに公演中止が続出していた。その後の事態の推移は急速で、一月近く経(た)ったいまはほぼパンデミック状態で、ほぼ都市封鎖状態でもある。野田秀樹がいまでも同じ意見かどうかはわからないが、「いかなる困難な時期であっても、劇場は継続されなければなりません」という言葉を引いているのだから、同じでなければおかしい。

「芸術」だからとお高くとまっている感じは否めないし、突っ込みどころもある。「演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です」と言うが、入場者のいない美術展も文学展もあり得ない。演劇を映像化するときにまさに無観客にすることもある。しかしやはりどこかちがっているのは、同時性・同空間性(?)とでも言うべき性質である。演劇を観(み)ることは、観客が役者と同じ空間で同じ時間を過ごしながら、それにもかかわらず舞台の上は虚構の空間だという錯覚を楽しむところにある。だから、役者が台詞(せりふ)をかんだ時には現実に引き戻されて、すごく白ける。「ひとたび劇場を閉鎖した場合、再開が困難になるおそれがあり、それは『演劇の死』を意味しかねません」とも言うが、僕なら公演中止で観られなかった舞台は、どうしてもチケットが手に入らなくて悔しい思いをした(僕以外の誰かが観たとは!という感じだ)、それ以上に悔しいから、状況が落ち着いて再開されれば、まちがいなくすぐに駆けつけるだろう。演劇ファンを舐(な)めてはいけない。

いまは新型コロナで死ぬか、新型コロナ不況で死ぬかどちらがましかというような議論になっているから、野田秀樹の「意見書」は一月早すぎたのかもしれない。それに、野田はクラスターを発生させてまで公演をしなければならないと言っているわけではない。「劇場公演の中止は、考えうる限りの手を尽くした上での、最後の最後の苦渋の決断であるべきです」とある。あまりに簡単に公演中止が決まったように感じたらしいことが、この「意見書」を書かせた動機にちがいない。だとすれば、これはもう民主主義の領域の問題だと思う。話を大きくするが、アメリカがイラク侵攻を決める議会で、たった一人反対した議員がいた。僕はそれを知ったとき「アメリカにはまだ民主主義が生きている」と思った。かつてこう書いたことがある。「議会制民主主義においては、原理的には野党は与党の提案事項のすべてに反対するためにある。それ以外に野党の存在理由はない。(中略)もちろんいつかは決着しなければならないから、そこで妥協が図られる。妥協は失敗ではなく、民主主義を成立させるためには大切な手段のひとつなのだ」(『大学生の論文執筆法』)と。あえて言えば、演劇を続けることよりも、そのように言えることが大切だった。野田秀樹が守りたかったのは演劇であり、同時に民主主義だったのだと、僕は思っている。

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