日本人の心 楠木正成を読み解く

第5章 戦後75年(6)「非理法権天(ひりほうけんてん)」の意味を探して

 当時の少佐の心情は18年1月に書いた『尊皇遺言』から推し量ることができる。4枚の色紙に血で<…皇統厳存して大義あり。臣子尊皇にして能く皇統扶す。故に大楠公は皇統継ぎ給ふあるを以て悲願とし、維新の志士は尊皇を絶叫す。復た吾が微衷(びちゅう)なり。世に汚隆(おりゅう)なきに非ず。乃ち尊皇の士起(た)ちしは殪(たお)れ、斃(たお)れては継ぎ、子々相承(あいう)け屍(しかばね)を重ねて終(つい)に今日に至る。未だ曾て悲願消せず、留魂滅せず。即ち尊皇の存する所楠公あり。皇統の存する所何ぞ死あらん>と、正成同様、一命を投げ出す決意を綴(つづ)っている。

 ところが、指導者は違った。ミッドウェー海戦の大敗で、敗戦が現実性を帯びてきたにもかかわらず、軍部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろう。懇意にしていた海軍大尉に「現部隊長は国賊なり。信念なく誠意なし。職責に対してしかり」「問題は全く人にあり…特に中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以(ゆえん)、全く物にあらず人にあり」と、指導部の戦略の欠如と指導力不足を嘆き、国賊とまで言い切っている。

 家族や知人宛ての手紙には、「大楠公」や「七生報国」の言葉があふれ、日本が生き残り、国体を護(まも)るには必死必殺の特攻攻撃のほかないと追い詰められていく姿が浮かび上がってくる。漢文で800字ほどの『慕楠記』を書いているが、思想史学者、小川常人(つねんど)氏は「ありふれた慕ふとは少し意味が違ふ。楠公の人柄を慕ひ、忘れないで後をついて行くといふ意味を持ってゐる」と分析している。

 湊川の戦いで正成兄弟が自刃の際に誓ったとされる「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」(七度生まれ変わっても賊を撃つ)は「七生報国」と名を変え、戦意高揚に用いられたという批判もあるが、黒木少佐は決して煽(あお)られたわけではなかった。正成同様、国が危急のとき、私心を捨てて、自分にできることは何かを考え抜いた末の苦渋の選択だった。

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