その他の写真を見る (1/5枚)
千島列島北東端の占守(しゅむしゅ)島で終戦後にソ連軍と日本軍が交戦した「占守島の戦い」。知られざる激戦で戦死した兵士を追悼しようと、元兵士や遺族らでつくる「占守島追悼戦没者慰霊の会」(札幌市)が7月、現地で慰霊祭を行う。事務局を務める出口吉孝・樺太豊原会会長(79)は「日本を守った戦いの意義を後世に伝えたい」と参加者を募っている。(寺田理恵)
「戦車や大砲の残骸が約100メートルおきに点在し、不発弾や遺骨も残されている。島には警備のロシア兵がいるだけで、大激戦があった当時のまま、時間が止まったようだった」
3年前に占守島を訪れた出口さんは島の様子をこう話す。
かつて日本が領有した占守島を含む千島列島と南樺太について、日本政府は領有権の帰属を「未定」としている。このため、国内で発行される地図では、日本やロシアと異なる色で表示される。現在はロシアが実効支配し、占守島へ立ち入るにはロシア軍の許可が必要となる。
こうした事情の背景には、歴史的経緯がある。
昭和20年8月9日、日ソ中立条約を破って満州や南樺太に侵攻したソ連軍は、日本の降伏表明後も各地で戦闘を継続。18日には占守島に上陸した。戦闘は日本軍が優勢に展開。日本側を大きく上回る損害をソ連軍に与え、北海道への侵攻を防いだとされる。
停戦後、捕虜となった日本兵の多くがシベリアに抑留された。日本は、サンフランシスコ平和条約(1951年)で千島列島と南樺太を放棄したが、ソ連は条約に署名していない。
樺太出身者でつくる樺太豊原会会長の出口さんが、占守島を訪れたのは平成29年。自身が会長を務める陸上自衛隊の支援団体「第11戦車隊士魂協力会」の結成30周年事業だった。