大阪万博から50年 あの日見た「未来の記憶」

 その舞台を「ビューティフルな3時間45分」と報じた産経新聞の記事が残る。ジョン・サーマンや日本のジャズメンが登場、熱いステージを繰り広げた。

 <日野皓正クインテットで始まり、一部の最後は5年ぶりに帰国した秋吉敏子のセット。第二部は渡辺貞夫カルテットの今日的な若さあふれる演奏でスタートした>。高度経済成長のさなか、ジャズシーンもまた発展していた時代だった。

 実は渡辺さんは2005(平成17)年の「愛・地球博(愛知万博)」で日本政府出展事業の総合監督を務めた。世界の子供たちが共演する大コンサートを成功させ、21世紀の万博を印象付ける。5年後の大阪・関西万博でも若々しいステージを再び期待したいところだが、「どうかなあ」とにっこり笑った。

蓄音機の針で描いた最高峰の地図

■公式マップ手がけた 森下暢雄さん

 「手書きの絵地図の最高傑作」-。1970年日本万国博覧会公式ガイドマップは、こう評される。発行269万部。来場者はこれを広げ、広大な万博会場の攻略法を考えた。

 この地図の誕生に欠かせない存在だったのが、森下暢雄(のぶお)さん(85)だ。当時、平凡社系の地図制作会社に所属していた。

 「地図は普通、建物や街が完成してから作りますが、これは実際の会場の工事と同時進行でした」

 資料となる図面は、トラック数台分にも。それを基に、数人でパビリオンなどの下絵を描く。

 製版にはスクライブという手法が用いられた。遮光膜を塗ったアクリル板に、極細の針で下絵通りに彫るというものだ。タッチに統一感を持たせるため、原版を彫るのは一人。気の遠くなるような作業を担ったのが、森下さんだった。

 「数カ月間、3坪ほどの部屋に缶詰めでした。アメリカ館が設計変更になったり、他のパビリオンでも、曲線の予定だった屋根が工期の都合で平坦になったり。そのつど地図も修正です」

 使う道具は、蓄音機などの針。細いもので0・08ミリで、これより細いと印刷したときに線が出ない。標準的な太さは0・125ミリで、これらを使い分けて描いていく。

 また、飾り状の図枠や縮尺は、従来の地図にはないグラフィックデザインの発想だ。精緻な作業の一方で、こうした遊び心も盛り込まれている。

 こんな裏話も教えてくれた。「ソ連館は地図に起こせば、手前の大きな壁面に奥が隠れてしまうので、全体が見えるよう方位を変えました」

 万博地図の制作チームはそのまま、2年後の札幌オリンピック冬季大会で公式ガイドマップを担当した。その後、森下さんは80年代に「ぴあmap」で活躍。分かりやすさに加え、情報量も豊富で、地図の革命ともいわれた。こうした仕事も、万博地図とつながっているのだろう。

 「万博の作業は苦しかったけど、大勢の人に支えられ楽しい仕事でした」

 森下さんは、懐かしそうに語った。

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 復刻出版された万博公式ガイドマップは、万博記念公園(大阪府吹田市)のヴィレッジヴァンガード万博記念公園店で購入できる。

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