鼻をくすぐる香ばしい匂いのパンと熱々のスープが目の前に提供される幸せ、期待感はこの本を手に取ったときの感覚と共通する。2012年にスタートしたシリーズ5作目。著者原作の映画「かもめ食堂」をご存じの方なら、その世界観をすぐに想像しやすいかもしれない。
主人公アキコは大手出版社のベテラン編集者で、食堂を営む母と2人暮らしだったが、母が亡くなり、自分も異動で編集から外れたことをきっかけに会社を辞め、改装した店でサンドイッチとスープの店をオープンさせる。その店「●(エー)」を舞台にアキコと愛すべき登場人物と猫たちの生活が描かれている。地に足のついた淡々とした毎日と時々起こる小さな事件。 今作では、開店以来仕入れていたパン工房の休業、異母兄の死亡、仕事の相棒しまちゃんの結婚生活が柱となっている。
シングルマザーだった母のもとに生まれたアキコには異母兄がいた。母に続き愛猫「たろ」が亡くなった後の心のよりどころでもあったが、その兄も急死する。ひと一人に与えられた永遠ではない日々を、自身の年も実感しいとおしく思い始める。
従業員しまちゃんは開店以来の右腕。ソフトボール部出身の体育会系で礼儀正しいが、その結婚生活が気掛かりだ。お相手のシオちゃんも好青年なのに彼に対して常にシオ(塩)対応。2人の関係はアキコ同様に読者も気をもむところだ。
そんな日常へのスパイスが、猫たちと向かいの喫茶店のママである。片や、「たろ」のあとに飼い始めた2匹の巨猫どすこい兄弟の「たい」と「ろん」。とにかく存在感抜群、たまらなくユーモラスだ。片やママは飄々(ひょうひょう)と現れては辛口コメントをして去っていくが、その視点はあたたかい。
食に真摯(しんし)に向かう姿勢、周りの人とのつながりはすこし不器用ながらも、アキコは気負わずゆるやかに年を重ねている。
丁寧に作られた幾つもの素材を使い、心を込めて調理することによって、それらは一体となり五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染みわたるスープとなってお客様をあたためる。そのスープのようにじんわりやさしい話をまた5作目でも味わうことができたのである。
ごちそうさまでした。(角川春樹事務所・1400円+税)
評・中原かおり(詩人)
●=ウムラウト付きa