一聞百見

現代アートでまちづくり 千島土地社長 芝川能一さん

昭和47年、住友商事に入社。大阪勤務を経て、結婚後にスペイン・マドリード駐在に。「2年半後、この会社(千島土地)をみていた父に、『会社の将来を考えたとき、なかなか難しい。お前、(会社に)こい』といわれて帰ってきました」。

芝川家は江戸期から続く商家で、大阪で貿易商を営んでいたが、明治初期に千島新田など土地を購入、不動産事業を展開し始めた。明治45年には会社を設立、所有地の賃貸を主業にしてきた。いわゆる大地主である。しかし、芝川家は当初、社主ではあったが社長ではなかったのだそうだ。住友家から優秀な人材を招くなどして、経営をまかせていた。「経営と資本の分離ですね。私の伯父がなるまで代々一族は社長にならなかった」。ちなみに「千島」の名は、持っていた新田の名に由来している。いずれも、どことなく奥ゆかしい一族、という印象を抱かせるエピソードではある。

■メセナ大賞受賞、自信に

「不動産は20年、30年の期間でみる事業。うちは分家なのですが、父が本家と相談し、長い目でみられる人材に後を託したいということで、お前、こいと」。そこで社長となるべく学びの日々。「失敗もしました。ほっといたらかえってくるものを買い取ったり、いまなら登録有形文化財より価値があるような明治のレンガ造りの建物を駐車場にしてしまったり」。昭和60年、節税対策の一環で会社は航空機を持った。平成10年からリースに本腰を入れ、現在運用しているのは30機。いまでは事業の柱のひとつ。「すべて海外で運用しているから外貨獲得にも貢献してます」

アートによる町づくり、という発想も飛んでいる。「もとは昭和63年に名村造船所から土地を返還されたのがきっかけ」。バブルの時代。貸した土地がかえってくることはまずないのだが、北加賀屋(大阪市住之江区)の工場跡地は約4万2千平方メートル、ドック延長も250メートルもある。原状回復には数十億円かかるからと、そのまま返還を受けた。企業の船の保管基地として貸していたのだが、バブルがはじけた。しかしアートプロデューサーの小原啓渡氏が目をつける。「長期的に使いたい」と申し出て平成16年から30年間、無償提供した土地をアート関連イベントで活用する「ナムラ・アート・ミーティング」がスタートした。

「経済の3要素はヒト・モノ・カネ。モノは出すから、カネとヒトを集めてこいと」。翌年には「クリエイティブセンター大阪」を開設。倉庫や工場を改装し劇場やギャラリーなどに再利用、若者を呼び込む仕掛けを作った。「夜に若いダンサーが集まってくるものだから、風営法が厳しくなるまでは名村はイベントの聖地と呼ばれていました」。さらに古い建物を安価に貸し出し、増改築を自由にしてアーティストを町に呼び込んだ。会社設立100周年に向け23年には財団をつくり、やなぎみわ、ヤノベケンジといった現代美術作家の巨大な作品を無料で預かるなど、アートをてこに北加賀屋エリア一帯の活性化をはかった。

「それが評価されて平成23年にメセナ大賞を頂戴しました。経営者として自信になりますよね」。この2年ほど、北加賀屋はウォールアートでも人気スポットだ。若いアーティストが自由に描いたインスタ映えする壁画を目当てにおしゃれな若者が集まる。「大阪人は無料(ただ)が好き。ラバーダック(平成21年にオランダの若手アーティストが作った約10メートルの巨大アヒルを大川に浮かべたプロジェクト)も見るのにカネを取らない。でも北加賀屋で飲食してくれることで町の利益に還元されている」

なるほど、人が集まればカネを落とす。損して得取れは商いの鉄則。昨年、このエリアに生まれた現代美術家、森村泰昌さんの美術館も、バランスシートよりいろんな人がやってきて地域の知名度があがる点を重視しているのだそう。ほかにも駐車場を農園にするなど、さまざまなアイデアを実現してきた。「僕は黙って若いスタッフの提案に予算をつけるだけ」。しかしAI時代。アートというAIでははかれない人間の営みに着目し、新しい時代に人はどう生きてゆくのかを考える経営者のようにも思えるが。「アートに着目したときAIなんていう言葉はなかった。結果的にこうなっただけです」

これからの目標は? 「会社の若いスタッフは僕が思ってもみないような視点で町を見ていたりする。いま社内の有志がワークショップで町の魅力を向上させる取り組みをしています。それをしっかり見守ることかな」

【プロフィル】しばかわ・よしかず 昭和23年、兵庫県出身。42年、甲南高校卒業。47年、慶応大学経済学部卒業後、住友商事に入社。55年に千島土地に入社。平成17年から同社社長。

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