「石鍋さんの考えは、日本人は毎年何万人と美術館に詰めかけるのに、作品を買う人は非常に少ないと。ワンピース倶楽部のしばりは、存命のアーティストの作品を年に1作は買いましょう」。「入ったらワンピースでは終わらずセベラルピーシズになっちゃって。年に数点、会社と個人で、買ってますね」見ているうちに面白くなってきた? 「たとえば、アートフェアなんかに来ている人が、作品についてどういう話をしているのかを聞いてるんです。若いカップルが『おもしろい』っていっているなあ、とか。確かにさまざまな見方がある。それで次第に関心を持ち始めたんです」
■「芸術、サッパリわからん」子供時代
現代アートコレクターで知られる芝川さん。実は、アートなどまるでわからない子供だったのだそうである。子供のころ、美術の先生に連れられて大阪の「グタイピナコテカ」に行った。具体美術協会を興した前衛画家、吉原治良の本拠地である。「吉原さんが製油会社を経営していた関係で、ピナコテカは個人のお屋敷の蔵。こちらは絵というと写生みたいなものだろうと思っているところに、いきなり吉原さんや白髪(一雄)さんの(抽象的な)絵をみせられて、これがアートといわれても…」
「いや、芸術、サッパリわからんと。かなりアレルギーありましたね」。以来、芸術からは縁遠い日々を送った。中学から高校1年までサッカーをやっていた。東京に出て慶応大学に入学した昭和40年代前半はみゆき族などファッショナブルな若者が闊歩(かっぽ)する時代。芝川さんもアイビールックに身をかため、青春を謳歌(おうか)した。しかし、そうした華やかさの裏側で、周囲は次第に政治的な喧噪(けんそう)に包まれはじめてゆく。「どっちかというと、不条理なことに団結して反対するような学生運動の世代ですから。昭和44年には東大安田講堂事件があったでしょう?」
芝川さんもヘルメットをかぶって角棒を振り回していた? 「いえ、僕はやってない。ノンポリもええとこ。大学が閉鎖されていたのでクラブ活動(ESS)も熱心でした。駐留軍人の家族に英語を習っていました。3回生の2月に就職が決まった後、4回生の夏休みに、リュックサック一個かついで90日間ほど海外を旅行し、その家族のもとをたずねたりもしていました」。「初めて海外に行ったのはアメリカ。グレイハウンド社のバスで横断したんですが、その途中でアポロ11号が月に行った。そのテレビ中継を、どこかで見ていた記憶があります。とにかく、海外へのあこがれがありました」