かながわ美の手帳

県立近代美術館鎌倉別館「生誕120年・没後100年 関根正二展」

 ■いや増す鮮烈な朱、未来に向いて疾走

 大正期を代表する早世の天才画家、関根正二(1899~1919年)の過去最大規模の回顧展が「県立近代美術館 鎌倉別館」で20年ぶりに開かれている。20歳で世を去り、昨年が生誕120年、没後100年。その5年に満たない画業を特徴づける「関根のバーミリオン(朱色)」は、さらに鮮烈さを増したように見える。

 ◆出会いと独学

 没年に開かれた遺作展の後に100年間も行方不明だったパステル画「少女」を含む作品約100点、初公開の書簡約40点や資料に加え、親交のあった画家の作品もあわせて紹介している。伊東深水、有島生馬、安井曽太郎、東郷青児…。作家の久米正雄、今東光(こんとうこう)、歌人の前田夕暮らとも知己を得て、短い生涯ながらも出会いに恵まれ、多くの恋もしたようだ。

 9歳で上京し、家族と深川に移り住んだ関根少年は、1歳年上で深川生まれの伊東一(はじめ)少年(後に美人画の大家となる伊東深水)と知り合う。大正3年、伊東の紹介で彼の勤める東京印刷の図案部に給仕として入る。

 そこで存在を知ったのがオスカー・ワイルドやニーチェ。翌4年春に退社し、放浪の旅へ。途中、長野で出会った画家の河野通勢(みちせい)に彼の油絵や素描、デューラーらの画集を見せられ、強く感化される。ほぼ独学で画家を志し、16歳で描いたのが「死を思う日」。出発点ともいえる作品だ。

 同館主任学芸員の長門佐季は「おそらく河野には、ゴッホの画集も見せてもらったかと思う。驚くべき咀嚼(そしゃく)力で旅の孤独感を表現している。『死を思う日』というタイトルも衝撃的で、亡くなるまで続く彼のテーマとなった」と説明する。

 この絵は同年秋の第2回二科展で初入選。同展にはセザンヌに傾倒した安井曽太郎の滞欧作品が特別出品され、それを見た関根は色彩の重要さを知ることになる。

 ◆幻視の世界

 大正期を代表する早世の天才画家はもう一人いる。本展でも関連として作品が展示されている村山槐多(かいた)(1896~1919年)だ。関根は20歳と2カ月、村山は22歳と5カ月の生涯。並び称される2人はともに大正8年、猛威を振るったスペイン風邪がもとで急逝している。生前、互いに見知っていたかは不明だ。

 2人の絵には赤色の絵の具が特徴的に使われている。関根はバーミリオン、村山はガランス(茜色)。「村山は破滅型で、結核を患い血を吐きながら、激しさをストレートに表現した。赤は血の色にも見える。一方、関根の赤は望みとか救いを求めた彼の、未来に向いた色なのではないか」と長門は推測する。

 「少年」も「姉弟」も、横顔の赤い頬が印象的だ。鮮烈な朱と深い青緑。「少年」では全部を描き込んでいない。見る者に補ってもらう。「少年の視線の先に何があるのだろう、と想像させる強い力がある」と長門。「姉弟」に描いたのは、姉におぶってもらった幼い日の幸福な記憶か。弟の表情は大人びて、女性への憧れも感じられる。関根の自画像とも読める。

 そして代表作「信仰の悲しみ」。モチーフに幻視の世界が加わっている。「関根にとっての神は、キリスト教など特定の宗教の神ではない。おそらく彼の中に彼自身の神があり、そこに救いを求めたのだろう」と長門はみる。

 この作品は大正7年の第5回二科展で新人賞にあたる樗牛(ちょぎゅう)賞を「姉弟」「自画像」とともに受賞。平成15年には国の重要文化財に指定された。

 5人が列をつくって歩いている。中央の1人は全身に朱をまとい、ひときわ目をひく。体は女性だが、これまた関根の自画像ではないかと思わせる。 =敬称略(山根聡)

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 「生誕120年・没後100年 関根正二展」は「県立近代美術館 鎌倉別館」(鎌倉市雪ノ下2の8の1)で22日まで。午前9時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。月曜休館。観覧料は一般700円ほか。問い合わせは同館(0467・22・5000)。

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【プロフィル】せきね・しょうじ

 明治32年、福島県大沼村(現・白河市)生まれ。9歳で上京し、深川に暮らす。大正3年、幼なじみの伊東深水の紹介で東京印刷の図案部に給仕として入社。翌年、退社し、信州方面に無銭旅行。長野で画家の河野通勢と出会ったのを契機に絵を志す。同年、第2回二科展に初入選。以来、連続入選し、第5回では「信仰の悲しみ」などが樗牛賞受賞。8年6月、深川の自宅で死去。20歳。

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