《あんずの里として知られる長野県更埴市(現・千曲市)。千曲川をはさんで田園風景の広がるこの地で生まれ育った》
小学校に上がる頃から自分にとって楽しい遊びは野球しかありませんでした。3、4人集まったら野球です。野球をやったことのない近所の女の子にもルールを一から教えて一緒に遊びました。バットがなければほうきでも何でも、ボールが打てれば何でも良かった。どうしても野球をやりたかったのです。中学では1年4カ月だけ野球部に所属しました。というのも、2年生の始業式のとき、講堂で校長が突然、「7月の大会が終われば、野球部は廃部にします」と発表したのです。「はっ?」と思いましたね。
廃部の理由は「野球は体育の教科にない。それに野球はバットを振り回してけがの恐れがある」と。ふざけるなという話ですよ。「体育の教科にない」は現に存在する部を廃止する理由にならない。誰かがけがをしたという事故も一つもなかった。その日から卒業するまで毎日、担任に提出する「生活ノート」という日記に、「校長、教頭、教師は教育者としての資格がないから、ただちに辞めるべきだ。廃部の正当な理由を説明できない。こんな人間が教育していいのか」と書き続けました。担任からはハンコが押されるだけで、メッセージが添えられることはありませんでしたね。
《野球少年が納得する合理的な説明は、最後までなかった。この経験が後の進路を左右する》
廃部直前、40人近い部員がいたのですが、僕と同じように「学校はけしからん」と声を上げたのは僕のほかに1人くらい。廃部になったらみんなバレーボール部とかテニス部に入りました。自分と友達の違いを知りました。教師の言うことなら理不尽なことでも従う。みんなは会社に入ってもやっていけるかもしれないが、僕は組織ではやっていけないと気づきましたね。常に合理的な思考をする良い上司がいるとは限りません。理不尽な上司とは必ずけんかして組織を飛び出す。そんなことを繰り返していたら、一生うだつが上がりません。おやじの鉄工所を継ぐのも絶対に嫌でしたから、将来に悩む中、司法試験に受かれば誰の指図も受けずに弁護士の仕事ができると思うようになったのです。弁護士という仕事もよく知らない子供のくせに、なんでそう思ったのか不思議です。今にして思えば、あの時、市や校長に対して裁判を起こすべきだったと思います。理不尽な人間に抗議しても何も変わりませんが、提訴すれば、地元紙の記事に載り、野球が続けられたかもしれないからです。
廃部の理由は後に分かりました。当時、野球部には運動神経の良い生徒が集中しがちでしたから、テニス部など他の部の顧問がそういう生徒を集めようと画策して野球部を廃部にしたのです。結局、野球部は私が卒業して1年後に復活しました。好きな野球を奪われたので、進学するなら野球強豪校の県立長野高校しかないと考えました。進学校ですので自分の学力で簡単に入れるとは思っていませんでしたが、何とかなるだろうと。世間を知らないのは怖いことですが、同時に強いことでもあるのです。(聞き手 大竹直樹)