〈昭和58年の参院選では福祉党党首として比例代表で再選を果たした。しかし、当時の中曽根康弘首相からの誘いもあり、翌年には自民党入りを決断。しかし、新聞などからは激しいバッシングを受けた〉
比例で当選してすぐに違う政党に移るというのは、僕が第1号でした。憲法上は問題ないけど、新しく導入された比例代表制度で逆行的なことをやったわけです。テレビのニュースの司会者は「とんでもないことだ」と怒り狂っていましたよ。でも、自分の信念だから、どうたたかれても仕方がない。福祉の政策が実現できない間にも、障害のある大勢の仲間が死んでいくわけですね。何もしてあげられなくて死んでいった仲間を見ると、10年、20年後の国家論も大事だけど、障害者問題は喫緊の課題が多い。自分が議席を持っている間は、時の権力の中に入って、虎穴に入らずんば虎子を得ずではないが、そういう思いで与党に身を置くことも大事だと思いました。
<福祉党は八代氏の離党、自民党入党の条件として障害者教育の改革や障害者の移動、交通対策の飛躍的推進など障害者福祉の緊急課題を要請。自民側から満足な回答を得たとして、59年に八代氏の離党、自民入りを認めた>
まず、自民党本部に車いす用のトイレがないと知っていましたから、作るように指示しました。そして、党内に障害者問題特別委員会を立ち上げ、障害者に関する問題の全てをそこで受ける形にしました。委員会は右も左もなく、いろいろな団体から陳情があれば、それを精査するための窓口的な役割としてやっていきました。入党する際はメディアにこてんぱんに批判されましたけど、今度は本格的に与党の立場で、厚生省(現・厚生労働省)にも堂々と胸を張って問題提起ができるわけですから、非常に見通しは明るいものになりました。