<昭和52年の参院選初当選以降、少数会派「無所属クラブ」に属していたが、54年12月は他会派と合併して「参議院クラブ」が誕生。八代氏ら6人からなる会派で、国会での代表質問ができるようになり、翌年の1月30日には本会議場の演壇に上がった。「何人かの人の手を借りて登壇したが、これは議場が健康で自由に歩ける人を標準にして作られているからだ。健康な人を標準にした社会に問題がある」と壇上から国内の福祉の遅れを痛切に述べた>
あのころは5人以上の会派でなければ、代表質問はできなかったんです。僕はとにかく、代表質問がやりたかった。やった後に会派が壊れてもいいから、とにかく一緒に会派を作る人を集めた。案の定、参議院クラブはその後、霧散しましたけどね。僕は何としても正面の階段から演壇に上がりたいと主張しましたが、断られました。結局、大臣席の後ろを通って、遠回りして上がりました。代表質問では、日本の福祉はこのように遠回りなんだということも含めて、僕の考えを訴えました。
<車いす議員としての活動を着々と進めていたが、58年の参院選からは全国区が廃止され、比例代表制が導入された。政党に属さない候補者の比例での出馬はできなくなったため、自身が代表となり「福祉党」を立ち上げた>
選挙制度が変わり、もう「八代英太」個人では戦えなくなりました。最初の6年の任期が終わって、「何とか続けなければ」という熱い思いがあり、障害のある仲間に「候補者になってくれ」と募りました。全盲や車いすとか、いろんな障害のある人を10人擁立しました。供託金は私が全部払う、心配いらないよ、とね。10人分の供託金数千万円は、知人のつてでほぼ全額をお借りしました。