〈昭和48年6月の転落事故で下半身不随となったが、必死のリハビリをこなして翌年には芸能界に本格復帰を果たした。「車いすタレント」として脚光を浴びた一方、当時の日本社会では、車いす利用者に対して現在よりもかなり厳しい「バリア」(障壁)が張り巡らされていた〉
あるテレビ局は、「車いす姿のままでは、映したくない」と補装具をつけて立った形の状態で撮影できないかと注文してきました。僕が「車いすでもいいじゃないですか」といっても、「いや、車いすはまずい」というような雰囲気でした。レギュラー番組の出演日数は減りました。ある日、ギャラが半額になったのでどうしてなのかと理由を尋ねたところ、「自分で考えてみろ」という返答でした。分からないでいたら「下半身まひだから、半分だ」といわれました。当時のメディアの障害者に対する感覚は、そんなもんでした。
<テレビへの出演回数は減ったが、余った時間で全国を訪れて、自身と同じように障害がある人たちの団体を回った>
自分自身が車いすに早く慣れ、本物の障害者にならなければいけないと思い、全国でさまざまな人たちと会って話をしました。車いすでお笑いの寄席に出演したこともあるんです。でも、お客さんが笑ってくれないんですよね。いくら面白いことをやっても、笑っては悪いと人は思ってしまう。出演していた日本テレビの「お昼のワイドショー」で、司会をしていた青島幸男さんに、今まで通りに面白いことを言うから「お前何言ってんだ」と頭をたたいてほしい、とお願いしたこともある。そしたら、青島さんは「そんなことしたらえらいことになる」という反応でした。社会はそういう状況で、なんとなく、テレビでも自分がお荷物のような感じがしてきました。
<一方で、全国の障害者団体との交流は継続していた。ある日、全国脊髄損傷者連合会の仲間とともに国会見学を計画した。申し込みをしたときに初めて、当時は車いすでは国会は傍聴できないということを知った>
これは許せないと思い、テレビ番組を通じて知り合った国会議員に陳情するために議員会館を訪ねました。番組で行っていた討論会のコーナーでは、何人もの国会議員が出演してくれていましたから。しかし、議員会館には階段があって、正面から入れませんでした。昔の議員会館は建物に入るためには階段を上る必要があったんです。守衛さんからは「どうしても議員の事務所に行きたければ、裏側に貨物エレベーターがあるから、そのエレベーターに乗れば各階に行ける」と言われました。
その日の帰り、仲間と一緒にご飯を食べながら、腹をくくりました。「これはもう、国会に障害がある当事者が入らなければだめだ」という思いに駆られました。そして「車いすを国会に」をスローガンに戦おうと思ったのです。(聞き手 今仲信博)
=次回掲載は2月2日