<昭和52年の参院選の初当選を後押ししたのは、「車いすを国会に」とワンイシューで福祉政策を訴えたことに加え、タレント・八代英太としての知名度だ。幼いころからしゃべりや物まねが得意で、故郷の山梨の放送局では、高校生の時からレギュラー番組を持つなど、才能を発揮してきた>
高校生のときにラジオ番組に出演すると、500円ぐらいもらっていました。就職活動のとき、学校や親戚の斡旋(あっせん)で東京の証券会社を受けることになったのですが、その会社の面接日が、ラジオ山梨(現・山梨放送)の番組収録日だったんですね。どっちに行くか、だいぶ悩みましたけど、ここは人生の賭けだと思って、駅に行って、「上り電車が先に来たら東京に、下り電車が来たらラジオ山梨に行く」と決めました。そしたら、先に下りが来たんです。証券会社の面接をすっぽかして、収録に行って、家に帰ったら親にものすごく怒られましたよ。
<そんな話が上層部に伝わったのか、ラジオ山梨から新規採用試験を勧められた。最終面接で披露したのは「社長の物まね」。社長以外の面接官の爆笑をさらって見事合格。高校卒業後に同局に就職し、素人演芸大会の公開録画の制作などに取り組んだ>
ラジオ局での仕事も身についてきたときに、スキーで転倒して大けがをした俳優の石原裕次郎さんが、地元の下部温泉郷に湯治に来ていると聞いたんです。何とか取材がしたくて、ホテルの関係者に頼んだところ、裕次郎さんたちのマージャンの相手をさせてもらえることになりました。その席で名刺を渡しましたが、「俺は湯治中だからダメだ」と取材はあっさり断られました。しかし、これは売り込みの場だと思って、マージャンをやっている間はひたすら物まねをやっていましたね。