昭和55年もあとわずか。もう「騒動」はないやろ…という気の緩みがあった。12月13日、筆者はデイリースポーツの同期の記者と一緒に東京へ向かっていた。ルーキー・北村照文の結婚式に招待されていたのだ。朝、新大阪駅の売店へ立ち寄った。すると―。
『掛布放出』『南海と2対4のトレード実現』というS紙の1面大見出しが目に飛び込んできた。
「またS紙が書いとるで」
「交換要員は門田? よう、こんな〝飛ばし〟するな」
「ほんまや」
2人は笑いながら新幹線に乗り込んだ。確かに掛布はこの年(昭和55年シーズン)、左ひざの半月板を損傷し、出場できたのは70試合。打率・229、本塁打11本という惨憺(さんたん)たる成績だった。だからといって、前年の54年に初の「本塁打王」に輝いた、25歳の若き主砲をトレードに出すとは思えなかった。
北村の結婚式はつつがなく終了した。筆者はこの記事がいるのかどうか確認のため大阪の本社へ電話を入れた。
「アホ、ボケ、カス! 今ごろ、どこほっつき歩いとんのや!」
いきなりのデスクの怒鳴り声に思わず受話器を落としそうになった。
「朝、新聞みたんか」
「ああ、掛布の記事ですか」
「そや、あれ見て何も思わんかったんか?」
「〝飛ばし〟記事書いてるなと…」
「どアホ!」
また、怒鳴られた。
「飛ばしかどうか取材せなわからんやろが。仮に飛ばしにせよや、掛布のトレード記事やぞ。担当記者やったら、すぐに裏取りせんかい!」
「すみません」の言葉も出てこない。ひたすら受話器に向かって頭を下げた。隣の電話ボックスではデイリーの記者も同じように…。ちなみに、この記者が後、同社の社長となり、現在、サンテレビの社長を務める沼田伸彦である。
「もうええわ。東京で屁(へ)ぇこいて寝とれ!」
これがデスクの最後の言葉だった。何から何までデスクのいう通り。S紙には評論家に元南海監督の〝親分〟鶴岡一人がいる。それだけに、S紙に載る南海の情報には信憑性があった。笑って東京へ行ける記事ではなかったのだ。それにデスクの「担当記者なら…」のひと言が効いた。「虎番」になって1年、知らず知らずのうちに傲慢になっている自分がそこにいたのである。(敬称略)