《双子の弟として生まれ、10歳上の兄を多忙な父親代わりに育った》
僕は二卵性双生児でした。双子で生まれた姉(広子さん)に比べて小さく生まれた僕は、もしかしたら死ぬかもしれないと思われていた。昭和15年5月10日に生まれているのですが、役所への届け出は20日になりました。生後の様子をみるために10日遅らせたという。しかし僕が1歳を過ぎた頃、姉が亡くなったんです。
とても不思議なことなのですが、それから僕はすごく元気に育っていった。だから小さい頃からよく母親から言われてました。「お前は2人分の力を持っているんだから。体も強くなったし、運もあるんだよ」。母親の言葉を信じて、すっかりその気になっていた。小学校に上がる頃には、わんぱく盛りでした。毎日真っ暗になるまで遊んでいました。思えばその後、高校の早稲田実業(早実)やプロに入っても、練習で苦になったことは一度もなかった。2人分の力というのはあったのかもしれませんね。
《野球は天職という》
小さい頃の遊びといえば、近所の仲間と路地や空き地でやった「三角ベース」の野球です。とにかくボールを追いかけるのが楽しかった。それから兄が慶応大学医学部に入学し、野球部に入った。おやじは仕事で忙しかったので、僕の面倒を見てくれたのが兄でした。だから大学の野球部の合宿にもよくついていって、球拾いなんかもして野球に熱中していました。
僕は決してスポーツは万能ではないんです。腕相撲は弱いし、鉄棒では懸垂もできない、逆上がりも全くだめだった。走ることも得意でない。いま考えると野球だけですよ、飽きないのは。他のものは全て飽きちゃった。マージャンをやってもすぐに飽きたし、ゴルフをやってもそこまで熱中しなかった。何をやっても中途半端だったけど、野球だけは熱中してときめいてやっていた。選手のときも、監督のときも。これだけは自分でも不思議に思います。
《中学時代に運命の出会いがあった》
本所中学(東京都墨田区)には野球部がなかったので、近所の大人たちがやっている「厩四(うまよん)ケイプハーツ」というチームに入り、本格的に野球を始めました。チームの仲間は僕が中学生のときに高校生くらいの年代で、大人たちに交じってやっているうちに、すっかり「高校生気分」になっていた。上のレベルで野球をすることで上達したのかもしれませんね。
運命の出会いもありました。中学2年の11月、自宅近くの公園で野球をしていると、声をかけてきた男性がいました。荒川博さんです。後に一本足打法の師匠となる恩人で当時、毎日オリオンズ(現千葉ロッテ)2年目の現役選手。オフシーズンで偶然通りかかり、右打席で打っていた僕に「左で打ってみたら」とアドバイスしてくれた。言われるままに左打席で打つと、これが感触抜群の大きな二塁打となった。後に聞いたら「左で投げていたし、右打ちはぎこちなかったから」と笑っていた。いま思えば人生を変える出会いでした。(聞き手 清水満)