「これからは背番号なき現役として、ネット裏から別の角度で野球を研究、追求していきたい」。引退会見が終わると、野村はこう言って色紙に言葉を書いた。それが『生涯一捕手』―。
翌年の昭和56年、野村はサンケイスポーツの専属評論家となった。産経新聞と野村の「縁」は深い。貧しかった少年時代、家計を助けるために始めた新聞配達。そのお店が京都・網野町にある産経新聞の販売店だった。
サンケイスポーツは早くから南海・野村の卓越した野球理論、打撃理論に注目した。42年に現役選手として初めて日本シリーズ(巨人―阪急)の観戦記『シリーズ見たまま』を依頼。44年のシーズン前には、内角球が打てずに苦しむ阪神のルーキー田淵の「打撃分析」をお願いした。
『今の田淵は〝打とう〟という意識が強すぎる。そのせいで上体が早く出過ぎる。うまくミートしてもただバットに当てているだけで、これでは打球にドライブがかかるしホームランにはならない。バットにタマがへばり付くぐらいの感じで持っていかないとダメだ。結局、打てないことから来る〝焦り〟が一番大きい。じっくりボールを引きつけ、最短距離でバットを振れれば、打てるようになる』
見事な分析。野村の的確で分かりやすい評論は評判となり、テレビやラジオ局からも日本シリーズの解説や観戦記の依頼がくるようになった。ところが、52年9月、「野村騒動」(第58話参照)が起こった。突如、監督を解任され南海を追われる野村。
その年の日本シリーズの解説を依頼していた雑誌や放送局は一斉に手を引いた。「常識的な判断を…」という球団からの〝圧力〟があったからだ。サンスポは「いつも通りに」とお願いした。当時のことを後年、野村はこう回想している。
「うれしかった。そのとき私は心に決めたんだよ。こんな野村にもう監督の依頼は来ないだろう。ならサンスポで日本一の解説者になってやる―とね」
野村は1球1球、コース、高さ、球種を分けて、24色の色鉛筆でスコアブックをつける。普通の評論家は試合後、担当の記者との話が終わるとさっさと球場を引きあげるのだが、ノムさんは帰らない。「どや、ちゃんと書けとるか?」といってチェック。「ちゃうなぁ、ワシが言いたいんはこうや」と納得するまで何度でも書き直させた。記者たちにとってこれほどの勉強はなかった。
『生涯一捕手』が終わる。野村の評論を高く評価したヤクルトが平成元年秋、「監督」を要請したのである。(敬称略)