昭和55年オフ、名選手たちが次々と現役生活にピリオドを打った。巨人・王貞治、高田繁、中日・高木守道…。
11月15日には西武の野村克也が「引退」を表明。東京・池袋の球団事務所で行われた記者会見で「45歳まで現役でやらせてもらったことに感謝しています」と深々と頭を下げた。
10年6月26日、京都・網野町生まれ。戦争で父を亡くした野村は、兄とともに小学1年生の頃から新聞配達のアルバイトなどをして家計を助けた。石ころに布を巻き付けたボール、木の枝をバットにみたてて野球をした少年時代。
府立峰山高で野村の野球センスが開花した。もちろん無名。3年生になると野球部の顧問が「ウチにすごい選手がいます。一度、見に来てくれませんか」とプロ野球関係者へ手当たり次第に手紙を書いた。1球団だけ見に来てくれた。それが南海の鶴岡監督だった。
28年夏、西京極球場のスタンドで鶴岡監督が見守る中、野村はランニングホームランを放った。そして同年暮れ、南海のテストを受け合格した。「まぁ、〝壁〟(ブルペン捕手)ぐらいにはなるやろ…」という低い評価だったという。
契約金はなし。年俸は8万4千円。毎月2千円を母親へ仕送りした。スーツを買うお金もない。入団1年目を学生服で通した。
32年オフ、東京六大学のスーパースター長嶋が契約金1800万円、年俸200万円で。そして34年オフには早実から王が契約金1800万円、年俸140万円で巨人に入団した。
「ONは太陽の下で咲くひまわりやけど、オレは日陰で咲く月見草や」。野村の〝名言〟のひとつとなった。
――27年間で一番の思い出は
「初めてマスクをかぶったとき。昭和31年の4月やった。投手は戸川さんでした。どんなサインを出しても首を横に振るばかり。目の前が真っ暗になり、この先、どうしよう…と悲観したのが忘れられない」
――若い選手たちに言いたいことは
「今の若い選手には歯痒(はがゆ)さを感じている。いいものを持ちながら、どうして高い水準を目指さないのか。厳しい道だが、本物のプロを目指してほしい」
生涯記録=3017試合出場、打率・277、657本塁打、1988打点。首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回。40年には打率・320、42本塁打、110打点で初の三冠王に輝いた。
ここからノムさんの〝第二の人生〟が始まったのである。(敬称略)