「過(あやま)ちて改めず。是(これ)を過ちと謂(い)う」とある。『論語』衛(えいの)霊公(れいこう)にある言葉である。
老生、前回の本欄(10月27日付)で今年のノーベル化学賞を受賞した吉野彰氏へ贈る自作の祝詩を披露した。その漢詩が句末に踏む韻(いん)の内、第四句末を「鳳凰(ほうおう)」の「鳳」としたが、それは「凰」とすべきであった。
前記の格言に従い、吉野氏並びに本欄読者諸氏におわび申し上げるとともに、詩句の修正を行いたい。悔謝(かいしゃ)。
加地伸行、老いたり。さはさりながら、口の悪さは衰えておらず、最近の国会質問には文句をつけたい。
その第一は、「桜を見る会」問題である。
老生、事の詳細は知らない。ただ、安倍晋三首相が自分の知人らを優先して招待し、それも国費を使っているのは、許せないという話のようである。そこから話が大きくなり、公私混同ではないか、と来た。
では、借問(しゃもん)す。国会議員諸氏は一度も公私混同したことはないと言(い)い切れるのか。
例えば、国会議員の場合、JRの新幹線グリーン車に無料で乗れる。これはJR前身の国鉄時代の、公用という名分を前提としてのサービスであり、その延長である。しかしそれは、あくまでも公用ということだ。その原則を国会議員は完全に守っているのか。そうだと言うなら大半はおそらく嘘(うそ)であろう。
老生、かつて国家公務員として国立大学に計29年勤務したが、その間、ずっと公私混同。どういうことかと言えば、老生の私物である書籍を自己の研究室に置いていたことである。
それがなぜ公私混同であるかと言えば、研究室は公有の国有財産であるから、私物である書籍を長期間にわたって置くこと、すなわち占有することは公私混同であって許されないということなのである。これ本当。
この原則によれば、日本の国立大学教員のおそらく99%は、公私混同している。
しかしまぁ、こんな些事(さじ)を槍玉(やりだま)に挙げるメディアはおるまい。それを承知の上で申し上げている。つまり「桜を見る会」を通じての公私混同論は国立大学教員の研究室における私物書籍による占有の公私混同云々(うんぬん)と同程度の問題である。
すなわち国会が取り上げるべき問題ではない。取り上げるとしても、そういった問題を扱うレベルの機関が検討すれば済むことではないか。
国の大事を扱う国会が取り上げるべき問題は、あくまでも今日の国家的問題である。
例えば、中国は虎視眈々(こしたんたん)と尖閣諸島占拠の機を窺(うかが)っているではないか。朝鮮半島有事の際、押し寄せて来る難民にどう対処するのか。巨額の赤字に苦しむ医療保険財政の解決法は何か。山積する国家的難問に立ち向かってこその国会ではないのか。
人間は不完全。「人誰(ひとたれ)か過ち無(な)からんや」(『春秋左氏伝』宣公二年)。大問題をこそ見よ、「鹿(しか)(大)を逐(お)う者は兎(うさぎ)(小)を顧(かえり)みず」(『淮南子(えなんじ)』説林訓)。それが首相と国会議員とのあるべき真の姿ではないのか。 (かじ のぶゆき)