山崎院は、この橋のたもとに位置し、同じ場所からは、道昭が創建した飛鳥寺東南禅院の同笵瓦だけでなく、さらに古い形式の瓦が混在して見つかっている。こうしたことから、この地に道昭が関係して、既存寺院を改修した寺院を営んでいたとみられる。道昭は山崎院開設の30年前に没しているが、発掘調査している大山崎町教委の古閑正浩主幹は「山崎院以前の寺院に道昭が関わっていたのは明らか。行基はしばらく使われていなかった道昭の寺院を改修して、山崎院としたのでしょう」と話す。
道昭も架橋のほか、井戸開発や港の整備など社会事業を行っていたことが知られる。古閑主幹は「行基は伝道と社会事業の一体的な行動を、道昭の事績から学び、山崎橋の再建と道昭の寺を整備した山崎院の開設に結びつけた」とする。
『年譜』によると、行基の社会事業は山崎橋の架橋以降に本格化。ため池開発や港湾建設などを展開する。行基の49院はその多くが、事業現場に近いところに開設されていた。
禁止後も社会事業
一方、山崎院跡から出土したものの中に、平城宮式の軒瓦があったことも注目される。極めて酷似した瓦で、それを使用できたことは山崎院の造営を、国家が支援していたことを示唆しているとみられる。
行基については、養老元(717)年、屋外での布教が、律令の「僧尼令」に反する行為(寺院外での布教)として、禁止するよう命じる詔(みことのり)が出されている(『続日本紀』)。国家による活動の禁圧だった。行基はその後も社会事業や造寺を展開。その中での山崎院造営に、国家の支援を受けられたのはなぜか。
『続日本紀』では、山崎院造営と同じ年(731年)、聖武天皇が「行基に従う優婆塞(うばそく)(在家で戒を受けた男性)、優婆夷(うばい)(同様の女性)らで、法に従い修行する者のうち、男は61歳以上、女は55歳以上の者はすべて入道を認めよ」と詔したことを記している。行基の布教の容認だった。禁圧から容認、そして支援へ。山崎院は国の行基への対応の変化を如実に示していた。