〈2003(平成15)年12月、プロ野球選手の谷佳知氏と結婚。「これからは谷亮子として頑張ります」。この選択もスポーツ界の常識との戦いだった〉
引退して結婚か、結婚するなら引退か。というのが当時、女性アスリートに限ってあったのかもしれません。私は、結婚して現役選手も続ける道を選択しました。「結婚したら弱くなるんじゃないか」「名字を変えたら運気が変わるから名前はそのままがいい」と、それくらい女性アスリートの結婚ってまだ自然な感じじゃなかった。私は、結婚したら名字が変わるものだと思っていたので、谷亮子としました。結婚を力に変えられると思っていたし、結婚してさらに上を目指し続けることができると、今でもそう思っています。実際にそうでしたから。結婚して現役も続けたからこそ、夫婦でともに五輪のメダルを獲得する機会にも恵まれ、プロ野球という真剣勝負の素晴らしい世界を知ることにもつながりました。最近は、結婚、出産を経て現役選手を続ける女性アスリートが少しずつ増えつつあります。うれしいことです。
〈01年の世界選手権で史上初の5連覇、03年には6連覇を達成した。女子選手の常識を覆した超人は、4大会連続となるアテネ五輪を迎える〉
シドニーの金メダルから、アテネまでの4年間は大変充実したものでした。シドニーの後、すぐに12月の福岡国際で11連覇を達成し、翌年の世界選手権(ミュンヘン)での5連覇を目標に定めてスタートしました。順調に来ていましたが、大会直前の激しい稽古中に、右膝内側側副靱帯(そくふくじんたい)を部分断裂してしまいました。史上初の記録が懸かったこの時の世界選手権は、私の柔道人生の中でも最も重要な大会でした。周囲からの絶大な信頼に後押しされていたので、簡単にあきらめることはできません。スタッフは欠場を勧めましたが、けがを理由にした欠場は本意ではないので、独自の治療方法を試し、テーピングの巻き方も工夫しました。「私流」が最短で治す道なんです。これは小学生の頃から両親がサポートしてくれたおかげで学べたことです。けがをしていたらけがをしているなりの戦術を考察し大会に臨む。その姿勢が、試合中の戦術の切り替えに生かされました。大会5連覇は極限の世界を見た最高の経験になりました。さらに03年の世界選手権(大阪)は、田村亮子として臨む最後の大会となりました。会場満杯の力強い応援が6連覇を達成させてくれました。この優勝はアテネ五輪の切符と金メダル最有力を意味するものだったので、表彰台の上で五輪2連覇を心に誓ったことを覚えていますね。
〈「田村で金、谷でも金」の公約通り、日本女子初の五輪2連覇。日本人初となる個人同一種目での4大会連続メダル獲得は五輪発祥の地で成し遂げた〉
五輪から五輪までの4年間にあらゆる大会がめじろ押しで、1度の五輪メダル獲得でも難しく大変だったことを実感しました。アテネで五輪連覇したとき私は29歳。さらに心技体どれも充実していました。これまで10代でできなかったことが20代でできた。20代でできなかったことが30代でできる。さらに40代-。そういう域に入っていました。(聞き手 森田景史)