〈32歳のとき、「幻の光」(平成7年公開)で映画監督デビュー。ベネチア国際映画祭で「金のオゼッラ賞」(撮影賞)を受賞〉
初監督作を失敗すれば、2本目は確実にない中、運が良かったのかもしれません。実は、あの作品は反省点の多い作品でした。自分で描いた300枚ほどの絵コンテ(撮影前に用意されるイラストによる設計図)にしばられてしまって、侯孝賢(台湾の映画監督)に「役者が現場で芝居をするのを観る前に絵コンテを描かないほうがいい」と指摘されました。
絵コンテ通りに標準レンズを使って、縁側で会話するシーンを撮ったのですが、僕のは単に静的なスチール写真の連続になっていました。でも同じように撮影された小津安二郎(映画監督)の作品は、一見静的に見える場面こそ、逆に感情が入り乱れる動的な場面になっているんです。
今観ても僕の力が及んでいないという感じです。カメラマンも、技術もすばらしいし、そういう意味では優れた部分はたくさんあるけれど、僕の演出がいちばん稚拙でしたね。あの映画に参加した人の中で、僕の能力がいちばん欠けていたと思います。
〈「ワンダフルライフ」(10年)、「DISTANCE」(13年)に続いて、4作目「誰も知らない」(16年)」がカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞(柳楽優弥(やぎら・ゆうや))を受賞する〉
昭和63年に実際に起きた事件を元に、翌年に「誰も知らない」の脚本の第1稿を書いたので、映画化されるまで15年かかっています。長男役の柳楽優弥は、会った瞬間に「この子」だと思い、演技テストもせずに主人公に決めました。選んだ子役と心中する覚悟を持って、時間をかけて撮れたのがよかったと思います。
子役の子供たちには、台詞(せりふ)は口伝えで演技してもらいます。与えられた台詞を家で練習して、自分の台詞だけは完璧に言えるようにして現場に来ても、相手役とキャッチボールができないんです。耳で聞いて口から出すということをやったほうがいいのと、その方が読んで覚えて来るよりも上手な子供たちが確実にいるんです。今はそういう子供を探して選ぶようにしています。