東京の借りは東京で返す メダル1個、55年前の競泳陣に何が起きていたのか

10月10日に開かれた60年ローマ、64年東京両五輪の水泳日本代表による「ローマ・東京 水泳人の集い」
10月10日に開かれた60年ローマ、64年東京両五輪の水泳日本代表による「ローマ・東京 水泳人の集い」

 1964年東京五輪のことを、誰もが鮮明に覚えていた。同五輪開会式からちょうど55年を迎えた10月10日、60年ローマ、64年東京両五輪の水泳日本代表による「ローマ・東京 水泳人の集い」が東京都内で開かれ、全国から約40人が集結。96年アトランタ五輪代表で記者になった私は今、どうしても大先輩たちに聞いておきたいことがあった。64年東京はなぜ、銅メダル1個に終わってしまったのかと…。

 戦前、競泳は日本のお家芸だった。28年アムステルダム五輪から36年ベルリン五輪までの3大会で金10、銀8、銅8ものメダルを量産。戦後は一時低迷したが、56年メルボルン大会では金1銀4、60年ローマでも銀3銅2のメダルを手にして復調し、62年には、男子200メートル背泳ぎの福島滋雄氏(98年に死去)が世界記録を樹立。64年東京へ向けて「水泳ニッポン」は順風満帆だったといえる。

 日本競泳陣は間違いなく、複数種目で世界と拮抗(きっこう)していた。「どこを歩いても応援がすごかった。それが逆にプレッシャーになってしまった」とは、前年の世界ランキングで3位につけていた男子200メートルバタフライの佐藤好助さん。

 大会本番は予選を3位通過したものの、準決勝では過度な緊張で体がこわばり、0・2秒差で決勝進出を逃した。レース後のサブプールで「泣いた」ことを昨日のことのように覚えている。

 メダル候補筆頭だった福島は、タッチ差で4位に敗れた。福島さんと親友だった佐藤さんは「彼は宿舎に帰宅後、枕や座布団をほうり投げて悔しがっていた。大会直前まで『時間がないぞ』と自主練に誘ってくれていた彼には本当にメダルを取ってほしかった」と振り返る。

 負の連鎖はさらに続いた。五輪2大会連続メダルが期待されていた女子100メートル背泳ぎの竹宇治(旧姓・田中)聡子も4位に終わる。僅差で表彰台を逃した6位以上の種目は9種目に上っていた。

 60年ローマ五輪男子800メートルリレー銀メダリストで、当時共同通信社の記者だった石井宏さんは「国を挙げての一大行事に、チームは平常心を失っていたんじゃないかな。『五輪には魔物がいる』という言葉も、この辺りに出たんだと思う」と回顧する。

 重圧は日に日に増していた。そして迎えた大会最終日の最終種目。男子800メートルリレー第3泳者だった庄司敏夫さんは、こう証言する。「この種目で取れないと、メダルがゼロになってしまうプレッシャーは、とにかく大きかった」。だからこそ「どうすれば銅メダルが取れるか」の一点張りで、ライバル国を徹底分析。レース直前まで引き継ぎ方法や泳ぐ順番など作戦を練ったことで、4人それぞれが自己ベストを出し、日本記録で表彰台に立てたことは一生の「誇り」だ。

 再び東京に五輪がやってくる。「今の選手は精神的に強い人ばかり。自分のベストを尽くせば結果はついてくるはず」と佐藤さんはいう。庄司さんは「われわれのときは(表彰台に)1本しかあげられなかった日の丸を、1本でも多くあげてほしい」と後輩たちに託した。東京の借りは東京でしか返せない-。大先輩の言葉を借りて私からもエールを送りたい。(運動部 西沢綾里)

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