■近づく夢舞台 海外から高評価
「bravissimo(ブラビッシモ)(すばらしい!)」
2015(平成27)年7月11日、イタリア・ミラノに歓声がこだました。
ミラノ国際博覧会(ミラノ万博)の「日本ナショナルデー」だった。「東北復興祭りパレード」の先導役を5人の着物姿の女性が務めた。
着物は福岡・久留米の呉服店「蝶屋」の3代目、高倉慶応(よしまさ)(51)が始めた「KIMONOプロジェクト」で制作したものだ。世界各国・地域をモチーフに着物を作り、2020年東京五輪・パラリンピックの舞台を目指す。
ミラノで特に注目を集めたのは、ご当地イタリアの着物と帯だった。
「花の都」フィレンツェの大聖堂とレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたヘリコプター、「水の都」ベネチアなどイタリア・ルネサンスの栄華を、京友禅の染元「成謙」の職人が描いた。
帯は西陣織の老舗、龍村美術織物がデザインした。フェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティ…。優美なイタリア車のヘッドライトを、日本伝統の紋様「亀甲柄」に配した。
制作テーマは「輝けるイタリアの未来」。同国経済は低迷し、政治情勢も混迷が続く。「それでもイタリアには、自動車やファッションなど世界に誇れるものがある」。職人はそんなメッセージを込めた。
観衆の反応に、高倉は手応えを感じた。「こちらの気持ちはイタリアの人々に伝わった。この成功の意味は大きいぞ」
超えなければならない壁は高い。
高倉は、210以上の着物と帯を制作する職人の手配と資金調達に苦しんでいた。何より、大会組織委員会や日本オリンピック委員会(JOC)、東京都といった決定権を持つ組織に認められなければ、大舞台には上がれない。
高倉は「外圧」を味方につけようと考えた。海外で得た高評価で、日本の組織を動かす-。高倉の父、慶明(よしあき)(79)も、同じ考えに至っていた。
◆うってつけ
慶明の知人に、うってつけの人物がいた。地元の名門校、福岡県立明善高校の同級生で、元パプアニューギニア大使の田中辰夫(79)だ。高校卒業後も、田中が帰郷するたびに食事を共にするなど、交流していた。
「大使館へのアプローチ方法を教えてほしい」。26年10月、慶明は田中に相談を持ちかけた。
1カ月後、東京で南アフリカなど6カ国の着物を披露するショーが計画されていた。プロジェクトとして初の舞台であり、慶明は6カ国の大使館関係者を招待できないかと考えたのだった。
田中は外務省で北米畑を歩んだ。入省した昭和37年、日本といえば「フジヤマ・ゲイシャ」といったステレオタイプのイメージが根強くあった。
本当の日本の魅力を世界にどう発信するか。田中が外交官として追求し続け、十分に果たせなかった課題だった。
慶明の説明を聞いた田中は、仕上がった着物を見て、感動した。素人目にも逸品だった。
「日本の伝統美を発信できるチャンスじゃないか」
田中はプロジェクトの紹介文を英語で書き、6カ国の駐日大使館に送った。知り合いの米国人に文面の添削を頼むほどの、力の入れようだった。
大使館には日々、大量の郵便物が届く。その多くは開封されないまま、デスクの上にたまっていく。田中は経験上、知っていた。積極的に働きかけなければ、忘れられてしまう。
投函(とうかん)して数日後、田中は大使館に電話をかけた。経歴が大いに役立った。日本の元大使だ。無下にはできない。
東京のショーには、6カ国すべてではないが、数人の大使館関係者が出席し、着物を見た。
田中は、米国進出にも一役買った。ロサンゼルス在住の娘を訪ねた際、現地の日本総領事館から、南カリフォルニア日米協会を紹介された。協会の年次総会などに、プロジェクトで制作した着物を出せるよう交渉した。
その着物には、全50州の州花や、黒人初の大リーガーであるジャッキー・ロビンソンの背番号「42」、アポロ11号など「米国らしさ」が詰まっていた。
着物は在福岡米国領事館をへて、駐日米国大使、ウィリアム・ハガティ(60)の目にもとまった。
ハガティは令和元年7月、米国大使館が主催した独立記念パーティーで、着物を絶賛した。
「アメリカの政府、民間人の心をつかんだ」。高倉は、プロジェクトに吹く追い風を感じた。
◆外交団長の推薦
米国だけではない。各国から日本に派遣された外交官の「重鎮」も、プロジェクトを支援した。
重鎮の名はマンリオ・カデロ(66)という。駐日サンマリノ大使で、「駐日外交団長」を平成23年から務める。
カデロは29年3月、高倉と会い、プロジェクトの説明を受けた。宗像大社の宮司、葦(あし)津(づ)敬之(56)の紹介だった。
カデロは、ソルボンヌ大学(パリ)の学生時代、フランス語版の源氏物語を入り口に、日本文化に魅了された。日本大使館が主催するパーティーにも顔を出した。そこで目にした着物の色合いと、女性の立ち居振る舞い。青年カデロの胸は高鳴った。
今、目の前で熱弁をふるっている高倉は、各国をモチーフに着物を作るという。祖国が描かれた着物は、どんな美しさだろう。カデロの胸に、学生時代の記憶がよみがえった。
何より、自国をPRすることは、外交官の大きな役割だ。高倉の構想は、その一助となる。
「愛情とリスペクトを込め、一生懸命着物を制作する。このプロジェクトを知った外交官は必ず喜ぶ。推薦します。紹介もしましょう」
カデロの言葉に、高倉は表情を緩めた。「外交団長の後ろ盾があるかないかは大きい。今日のプレゼンが、プロジェクトの成否を左右する」。そんなプレッシャーを感じていた。
カデロは早速、各国関係者にプロジェクトを紹介し、着物を披露するイベントへ出席するようメッセージを送った。
それだけではない。日本側のキーパーソンにも手紙を送った。
「プロジェクトの平和と調和の精神は、(五輪の)開会式を通して世界に発信されることでしょう。プラカードを持つ女性に着ていただけたら素晴らしい。大会終了後はレガシーとして長く国際親善に活用される。日本の伝統文化を愛する私は、ボランティアとして相談に乗っている」
あて先は組織委会長の森喜朗(82)、JOC会長の竹田恒和(71)、東京都知事の小池百合子(67)の3人だった。
この手紙は、高倉が各組織にプロジェクトを売り込む強力な武器になった。
◆全力でやる
令和元年8月29日、第7回アフリカ開発会議(TICAD7)の参加者を招いた夕食会が、横浜市で催された。
夕食会終了後、アフリカ各国の着物を披露するショーが予定されていた。
ショー実現には事務局の次長補、小林龍一郎(53)=現・外務省東京オリンピック・パラリンピック要人接遇事務局次長=が、大きな役割を果たした。
小林はTICAD7の6年前、高倉とフランスで会っていた。着物の美しさを世界に発信したいという高倉の熱意は、脳裏に強く残った。
2人はその後、TICAD7の文化プログラムを募っていた事務局で再会した。高倉の熱意はさらに高まっていた。小林も動かされた。
「高倉さん、できることは全力でやるけれど、できないことはできないと言いますからね」
小林は事務局の中核メンバーとして、着物ショーに向け奔走した。
危惧されたのは、着物や帯の色柄だった。
高倉や職人が、制作にあたって、細心の注意を払っていることは知っていた。それでも紋様や色使いが、その国のタブーに当たったり、意図しない受け取られ方をしないか。リスクはあった。
小林らは、アフリカにある日本大使館や領事館を通じて、各国に照会した。すべての国から「問題ない」との回答を得て、ショーが決まった。
次は3日間の日程でどう使うかという演出に心を砕いた。首相の安倍晋三(65)のあいさつ文に「夕食の終わりには、アフリカ各国をイメージして仕立てた、色鮮やかな『KIMONO』による、ファッションショーを行います」との文言を盛り込んだ。
夕食会後の和やかな雰囲気で、ショーが始まった。着物や帯に込めた意図を通訳を介して説明した。
ナイジェリアをモチーフにした着物には、同国に存在する250を超える部族と同数の蝶が、描かれていた。
「誇らしい、わがナイジェリア」。同国出身のアフリカ開発銀行総裁、アキンウミ・アデシナ(59)は、着物姿の女性との写真を付けてツイッターに投稿した。
ショーは盛り上がった。その晩、ホテルの部屋に戻った安倍は、妻の昭恵(57)にこう語った。
「着物のショーはとてもよかったね。あれこそおもてなしの心だ。オリンピックやパラリンピックでも、ぜひ見てもらいたいよね」
東京五輪の開会まで300日を切った。「着物産業の復興」。高倉と産地の夢が近づく。
(敬称略)
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「KIMONO」は九州総局・中村雅和が担当しました。