3月20日、陸上自衛隊のヘリコプター、UH-60の操縦桿(かん)を握っていた。高遊原(たかゆうばる)分屯地のある熊本空港(熊本県益城町)が見えると、高度をゆっくりと下げた。着陸後、翼を固定するローターブレーキに手をかけたとき、思わず涙がこぼれた。「これでもう終わりなんだ…」。ラストフライトだった。
農薬散布のヘリに憧れる航空少年だった。高校卒業後の昭和58年、陸自に入る。沖縄県の第1混成団=現・第15旅団=に配属され、在日米軍との連絡調整を担った。勉強漬けで忙しい日々だが、空への思いは捨てなかった。25歳だった入隊7年目、受験資格が26歳未満の航空操縦学生試験に「最後のチャンス」と挑戦し、合格した。
空では一瞬の判断ミスが、死につながる。「目配り、気配り、心配りを欠かすな」と教官からたたき込まれた。北部方面ヘリコプター隊に配属された。平成5年の北海道南西沖地震をはじめ、数多くの災害派遣や急患の輸送に出動した。
陸自航空学校(三重県)の教官を務めていた16年2月、訓練中のヘリ2機が空中衝突し、教官と訓練生の2人が亡くなった。
同僚が亡くなった喪失感と、遺族の悲しむ姿は、今も胸に刻まれている。
「事故は絶対に起こしてはいけない。毎日、慎重かつ愚直に、基本を侮らずやるしかない」
約30年、計6500時間の飛行を無事故で終えた名パイロットは、こう言葉に力を込めた。(中村雅和)=随時掲載