10月21日、午後5時9分。長嶋監督の記者会見が始まった。会場にはテレビカメラが何台も設置され、報道陣の数は200人近くに膨れあがった。会見の様子は生中継で全国に放映された。ミスターは何を語るのか…。日本中が固唾をのんだ。
「わたくしの方から辞意を表明し、辞表を提出しました」
一斉にフラッシュがたかれ、唇を真一文字に結んだ長嶋の無念の表情をとらえた。
「野球の世界はすべて成績が優先する。私の辞意は成績の不本意のみで他意はない。不振はすべて監督の責任です」
長嶋は「辞任」と主張した。記者たちから質問が飛んだ。
――常勝を義務づけられたプレッシャーはなかったか
「巨人軍は勝つこと、常勝することが使命。私の力が及ばなかったということです」
――ユニホームを脱いだあとは
「23年間ただがむしゃらに野球に打ち込んできました。このあたりで少しは自分の足元を見直して、反省を加え、これからの人生をゆっくり考えてみたい」
――球団からのフロント要請を断ったようだが
「私はグラウンドで育った野球選手でありますし、フロントとグラウンドとは違う異質な仕事。適性から自分には不向きと考えたからです」
筆者はこの中継を大阪・梅田の阪神球団事務所で各社の虎番記者たちと一緒に見ていた。この日、球団事務所では中西監督を中心にして〝組閣会議〟が行われていた。
「ケジメの付け方はさすがやね。最終戦が終わってパッとやる。阪神みたいに一部に『辞めたい』と出て、すったもんだしてUターンの結末。この点だけは違うな」。記者たちの間に冷ややかな笑いが起こる。〈その通りや〉と筆者も頷(うなず)いた。
「やっぱり『江川騒動』と『青田騒動』の影響が大きい。あれで巨人の人気は一気に落ちたし、読売新聞の部数にも大きく影響した。長嶋さんだけの責任やないと思うけどな」
「青田騒動」―とは、昭和54年の暮れも押し詰まった12月27日に起こった球界を震撼(しんかん)させた大騒動のこと。実は「虎番」拝命まもない筆者もこの騒動に巻き込まれたのである。(敬称略)