虎番疾風録

解任劇の裏に大物OBの存在が… 其の参77

虎番疾風録 其の参76

昭和55年10月21日、巨人担当記者にとって長い長い一日となった。

東京・田園調布の長嶋邸前に集結していた記者たちは午後4時前、長嶋監督が自宅を出ると、その後を追った。午後4時35分、大手町の読売新聞本社へ長嶋監督が到着。本社前にはすでにテレビやラジオの中継車6台が並んでいた。

午後5時、まばゆいばかりのカメラフラッシュを浴びながら正力オーナーが、長嶋監督の退団とOB藤田の監督就任を発表した。

「巨人のV9はONがあってのこと。その長嶋監督をこんなことで解任するとは…。なんだか、あっけないような気がする」とは鈴木セ・リーグ会長の感想。工藤パ・リーグ会長の思いは少し違った。「巨人のオーナーは長嶋監督を残留させるようなニュアンスの発言をこれまでしてきたのではなかったかね。それがこういう事態になるとは〝闇討ち〟のような感じがいなめない」

闇討ち―とは少々物騒な発言。だが、それが当時の球界関係者の偽らざる思いだった。長嶋「解任劇」の裏に見え隠れする大物OBの存在。〝ドン〟川上哲治の名前が挙がった。巨人担当の清水先輩は当時をこう回想した。

「川上さんが裏で動いた―とみんな思ったよ。務台さん(当時、読売新聞社長)の〝相談役〟のような存在だったし、夏のゴルフコンペで雑談とはいえ、藤田さんを次期監督に指名したことはみんな知っていた。長嶋さんも後日、〝野沢にやられちゃったよ〟と言っていたしね」。「野沢」とは当時、川上が住んでいた東京都世田谷区野沢のことである。

川上と長嶋。2人には本当に〝確執〟があったのだろうか。清水先輩によると、現役時代は良好。49年オフ、監督に就任したとき〝亀裂〟が生じたという。

「初めての監督だから、川上さんが自分の息のかかった牧野さんや藤田さんをコーチに残せ―と、いろいろアドバイスした。それをミスターはすべて蹴って、自分のスタッフを集めたんだ。ミスターは川上野球の継承ではなく、自分の思う野球をやりたかったんだ」

キャッチフレーズは『クリーン・ベースボール』。これもドン・川上のかんに障ったという。そして1年目の50年シーズン、長嶋巨人は球団史上初の最下位に沈んだ。それ、みたことか。意地でも勝ってやる。2人の間の溝はさらに大きくなったという。(敬称略)

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