モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(60)論理国語は素材次第だ

国語力をどう育むか?文部科学省の狙いは成功するか…
国語力をどう育むか?文部科学省の狙いは成功するか…

大きく変わる高校の国語科

 自慢ではないが、生命保険や自賠責保険の契約書にきちんと目を通したことがない。目を皿のようにして読んだのは家を購入したときぐらいだ。もちろんパソコンなど電子機器のマニュアルはほとんど理解できない。なんとも無防備な人生を送ってきたものだ。幸いなことに訴えられたことも、訴えたこともないので、刑事訴訟法や民事訴訟法とも無縁だ。

 これからの時代、私のような人間を作ってはまずいと考えたのだろうか、令和4年度から適用される「新学習指導要領」によって、高校国語科の構成が大きく変わる。まず共通必修科目の「国語総合」が、現代の社会生活に必要とされる論理的、実用的文章を扱う「現代の国語」と、古典から現代までの小説、詩歌を扱う「言語文化」に分離される。選択科目の「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」が、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に変更され、生徒は4科目のうち2科目を履修することになり、履修パターンは学校に任される。

 目玉は新たに登場した「論理国語」だ。多様な文章を多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する科目として、主として思考力・判断力・表現力などの創造的・論理的思考の側面の力を育成するという。

 大学入試センター試験に代わって2年度から導入される大学入学共通テストのサンプル問題のなかに、架空の行政機関が作成した景観保護ガイドラインや、駐車場使用契約書といった実用的文章を素材にした設問がいくつもあったため、進学校では「論理国語」と「古典探究」を履修させるようになる、つまり高校生が近代文学に触れる機会が大幅に減るのでは、という臆測が飛びかった。

反知性主義者の深刻な病態?

 まず、文芸評論家の伊藤氏貴さんが雑誌の「高校国語から『文学』が消える」と題したコラムで、《中島敦『山月記』や漱石『こころ』のような、日本人なら誰でも読んだことがある文学作品が、契約書やグラフの読み取りに取って代わられる》と警鐘を鳴らした。続いて作家の阿刀田高さんが「高校国語から文学の灯が消える」で《契約文や図表を読み解くことが本当の「国語」教育なのか》と訴え、文芸評論家の浜崎洋介さんはこう書いた。《「国語教育」の意味は(中略)放っておけばまず間違いなく触れない「国語」の世界に、子供たちを触れさせておくことにあります。『山月記』しかり、『こころ』しかり、森鴎外の『高瀬舟』しかりです。私などは、そこに谷崎潤一郎『刺青(しせい)』や、三島由紀夫『憂国』など「危ない作品」も入れたいところですが》

 日本文芸家協会(出久根達郎理事長)は声明で《近年、国語教育は実用的な力をつけるための内容に変えるべきだという意見が強まり、結果として大学入試問題や教科書から文芸作品が減っていることも事実》であり、今回の改編はその流れに棹(さお)さすものだと批判した。余談になるが、この声明は「これが日本文芸家協会の声明?」と疑ってしまうほど稚拙かつ間違った日本語でつづられている。怒りのあまり文章が乱れたのかしらん。

 ネットでは、思想家の内田樹さんが《自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった》と信じる反知性主義者の深刻な病態と指摘、脳科学者の茂木健一郎さんは《言語の運用能力として、論理的な思考力、批判的思考、というのがあるのはわかる。しかし、それは、いわゆる文学的な読解力と、ひとつながりのものだ。(中略)日本語に関する教科を、「論理国語」と「文学国語」に二分して、そのうちどちらかを選択する、ということを考える人たちの頭の悪さとセンスの貧しさには、驚愕(きょうがく)する》とつづった。

 この世界には、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだ人間とそうでない人間の2種類がいる。作家の村上春樹さんがこんな趣旨の言葉を残しているが、確かにその通りだと思う。人間存在の深淵(しんえん)にからめとられ苦悩する人間と、『カラマーゾフ』を読んだとしても、深淵なぞから目をそらして合理的・功利的に生きようとする人間。もちろん社会的に出世し、国や会社の運営を担うのは後者である。苦悩する前者がその役割を担えるはずがない。ただ、後者のように、現世だけに生きる者は、現世によって使い捨てにされる。そのことは覚えておいたほうがよい。後者の役割とは、芸術や批評活動によって前者が支配する世界を精神的に豊かにしてゆくことだろう。どちらのタイプの人間もこの世界には必要だ。

 高校国語科の改編には後者の意向が強く反映されているのは間違いない。前者がそれを批判するのは、社会全体としてみれば、きわめて健全なことだ。大事なのは双方が聞く耳を持つことだろう。

素材しだいで面白い授業に

 いま考えなければならないのは、「論理国語」の授業を、高校生にとって真に意義あるものとするため、何を素材にどう展開してゆくかということだ。その気さえあれば、いくらでもダイナミックで実践的で深い授業が可能だと私は考えている。

 まず、駐車場使用契約書なんていうしみったれた素材など扱うなと言いたい。「自分が損しないため」としか考えられない卑小な人間を作るだけだ。では何を素材にするか。日本国憲法や日米安全保障条約、国連憲章などだ。できることなら年に数回、憲法学者、哲学者、弁護士、検事、企業の法務担当者、ジャーナリストなどを講師として招き授業をやってもらう。それぞれにイデオロギーをお持ちだろうが、授業では文章をイデオロギーのフィルターを通さずに論理で読み解くことが条件だ。こんな授業なら私自身もぜひ受講してみたい。

 モンテーニュは第1巻第25章「ペダンティズムについて」にこう書いている。

 《我々は他人の意見と知識を貯め込む。それから? それでお仕舞い。だがそれらを我々のものにしなければいけないのだ》 

 「論理国語」がモンテーニュの指摘にかなったものになればいいのだが…。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。

   (文化部 桑原聡)

       =隔週掲載