■「皆が息子と同じ夢を見ている」財界動かした父の気迫
「息子がとんでもないプロジェクトをやっている。父親として、どうしても成功させたいんだ!」
平成27年4月、福岡県久留米市の呉服店、蝶屋の会長、高倉慶明(よしあき)(79)は、久留米商工会議所会頭の本村康人(71)に鬼気迫る表情で訴えた。
慶明は、高校卒業後の昭和41年、呉服店を継いだ。以来、血のにじむような努力を重ねた。京都をはじめ、産地や職人の元に通った。着物業界では珍しく、「買い取り仕入れ」を導入した。売れ残りのリスクを店が負う代わりに、仕入れ値を安くするよう交渉した。
やがて一流職人の信頼を勝ち取り、業界内で「久留米に蝶屋あり」と言われるようになった。
着物に人生をささげた慶明は、地元財界人との付き合いもほとんどない。商議所会頭の本村とも、十年以上交流はなかった。
そんな慶明からの面会の申し入れに、本村は身構えていた。
あのオヤジ、一体何の用で来るんだ-。
慶明が口にしたのは、長男、慶応(よしまさ)(51)が始めたKIMONOプロジェクトだった。世界各国・地域をモチーフに着物を作り、2020年東京五輪・パラリンピックでの披露を目指す。
213の国・地域の着物を目標にしているが、着手から1年たっても、10カ国程度の着物しか完成していなかった。
あまりに歩みが遅い。理由は、資金不足だった。
1着の制作費は、着物と帯で計200万円だ。総額4億円強が必要となる。
だが資金は集まらず、先行して作ってもらった職人への支払いも滞っていた。どれだけ高い理想を掲げても、事業を進めるには金がかかる。
「地元財界も、プロジェクトに力を貸してほしい」
慶明は窮地の息子を助けようと、本村の元を訪れたのだった。
複雑な親心もあった。慶明は着物一筋で生きてきた。そのことに後悔はない。しかし息子には、若いうちに外の世界を見てほしかった。息子は英語が得意で、海外に興味があった。
だが、慶明は体調を崩し、平成4年、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職したばかりの息子を呼び戻すほかなかった。
「外の世界を見る機会を奪ってしまった」。慶明は負い目を感じていた。
その息子が、世界を相手に着物の美しさを示そうとしている。この望みだけは、かなえてやりたい。
慶明は、本村を懸命に口説いた。父の気迫に本村は押された。
面会後、本村は誰ともなしにつぶやいた。「親思う心に勝る親心、だな」
本村は翌日、高倉慶応を呼び出した。
高倉から概要を聞き取った本村は、その場で支援を決断した。副会頭の一人を責任者とし、金集めを指示した。
◆「この男は本物だ」
本村はさらに、地元紙、西日本新聞の元専務、杉尾政博(82)を高倉に紹介した。記者時代、経済記者として鳴らした杉尾は、九州の経済人にコネクションを持っていた。
27年9月4日、杉尾は高倉を伴い、九州電力会長で、九州経済同友会の代表委員、貫正義(74)に面会した。オール福岡、オール九州で物事を進める上で、九州最大の企業、九電の協力は欠かせない。
「伝統産業の復興に加え、オリパラによる観光産業の振興にもなります」。高倉は力説した。
これはものになるかもしれない-。貫はそう直感し、協力を約束した。
だが、経営は厳しかった。東京電力・福島第1原発事故後の原発停止で、九電は24年3月期以降、赤字決算に転落した。25年以降、社員にはボーナスを出せず、地域へのあらゆる寄付もストップせざるを得なかった。
貫は、グループ各社に声をかけ、何とか数百万円を集めた。その上で、福岡の主要企業でつくる任意団体「七社会」のメンバーや、東京の企業の社長や会長に協力を求めた。
貫の熱意に、周囲は驚いた。
杉尾と高倉は、貫に続いて、九州経済連合会会長の麻生泰(73)=麻生セメント会長=に会った。
話を聞いた麻生は「外国人にアピールするなら、帯をクリップでとめたりした方が、簡単なんじゃないの」と提案した。実は、麻生の妻の意見だった。
高倉は反論した。
「お言葉ですが、それではだめなんです。日本の伝統的な着物の美しさを、余すことなく世界に伝えたい。それが私の思いです」
麻生の元には、ひっきりなしにさまざまな話が持ち込まれる。公のことより、もうけたい、有名になりたいといった欲が、透けてみえる人物も多い。
高倉の態度や話に、そんな我欲(がよく)は感じられなかった。
この男、本物だな-。言葉にはしなかったが、麻生は感心した。
専門学校、麻生塾理事長を務める次男、健(たけし)(37)に話し、タイの着物の制作費を出させた。九経連の会合をはじめ、機会をとらえてはプロジェクトを話題にし、支援を呼びかけた。
九州経営者協会会長の竹島和幸(70)=西日本鉄道会長=や、九州商工会議所連合会会長の礒山誠二(68)=九州リースサービス社長=も、協力を約束した。
久留米の本村も、精力的に動いた。
地元選出の衆院議員、鳩山邦夫=故人=にも働きかけた。首相の安倍晋三(65)に久留米特産のツバキを届けるセレモニーに、プロジェクトで制作した着物姿の女性を連れて行った。
◆オール九州
地元企業や七社会、関連企業の協力にもかかわらず、寄付金は伸び悩んだ。経営者個人の支援にとどまっていたからだ。九州財界を挙げた組織にしようという意見もあったが、プロジェクトが途中で頓挫した場合のリスクがあった。
平成29年12月までに完成、またはめどがついた着物と帯は67カ国分に過ぎなかった。
五輪の1年前には、ある程度の形になっていなければ、売り込みのスタートラインにさえ立てない。このままのペースでは、とても間に合わない。
高倉は、文字通り日本中をかけ回った。なりふり構わず資金を集めた。
29年11月、高倉は貫の元へ向かった。
「来年4月までに100カ国分の着物を完成させます。めどがつきました。目標の半分です。残りの期間、今まで以上のサポートをお願いできませんか」
貫は終始、笑顔だった。
「よくここまで来た。よくここまで自力でやった!」
貫は、その場で支援組織をつくると約束し、麻生らに根回しをした。
30年1月11日、九州経済界が一丸となって「KIMONOプロジェクトを応援する会」が発足した。会長に麻生が就いた。
会では、寄付の見込みがありそうな企業のリストを作り、高倉らの訪問を後押しした。オール九州の支援態勢が、今まで以上に明確になり、スポンサー獲得は一気に加速した。
30年4月29日、高倉は約束通り100カ国分の着物をそろえ、久留米市の久留米シティプラザで記念式典を催した。
「伝統の技術を守り、未来に向けて発展させるプロジェクトだ。その発信地が、九州ということが、私は何よりもうれしい」。冒頭、麻生はあいさつした。
その一言一言を、高倉の父、慶明はステージ近くの客席でかみしめた。
支援態勢は、慶明の直談判から始まった。道半ばとはいえ、ゴールがうっすら見えてきた。
式典では、九州の高校生らがモデルを務め、100カ国分の着物を1着ずつ披露した。最後には、100人のモデルが手をつなぎ、輪をつくった。
東京五輪の舞台で、すべての国・地域の着物が輪になる。高倉の掲げた理想が、慶明はもちろん、ショーの観客全員の脳裏に浮かんだ。
息子と同じ夢を、これだけ多くの人が見てくれる。何てすばらしいことだ-。
慶明は、心の底から感動した。その目から一筋の涙が流れた。(敬称略)