「上級国民」という流行語がある。もとは4年前の東京五輪エンブレム差し替え騒動で発生したネットスラングだが、今年4月に東京・池袋で高齢男性が運転する乗用車が暴走し、母子2人が死亡、8人が負傷した事故が生じた際に、「逮捕されないのは元高級官僚だからか」との批判がネットを中心に激しく噴出したのに合わせて、「不当な特権を持つ上層エリート」という、皮肉と敵意の度合いがより強まった意味に転化してリバイバルすることになった。
「上級国民」がいるとすれば、対となる「下級国民」も当然存在することになる。日本社会が上下に分断されているという認識の広まりを示す流行語といえるだろう。今月号の論壇誌では「上級国民」問題や、先の参院選での新興勢力台頭などを切り口に日本社会の変質を見いだす論考が複数並んだ。
中央公論の吉川徹「『上級国民』と『アンダークラス』の分断が始まった」は、学歴社会論を専門とする社会学者が、一連の現象を分断化した社会の一面として読み解く。格差を示す流行語としては、昭和末の●(金持ち)と★(貧乏)があるが、それは社会が右肩上がりの経済成長を遂げる中で、目に見える豊かさの希求という人生ゲームでの勝者と敗者を指した言葉であり、やっかみや優越感を通じて上下各層が互いを意識し合っていたことを示していた。
だが、平成期に入り経済停滞が続く「失われた30年」の伸びしろのない社会の中で、上昇志向やさらなる物質的豊かさを求める競争的価値観は薄れ、とにかく失わないことを目指す現状維持志向が広がっていく。人生ゲームのルールは、親世代と同じ社会的地位を保てれば御の字、と上昇より落ちないことが重視されるようになった。似たような学歴や環境で育った人間同士で交流を重ね再生産を繰り返す上層エリートは、もはや中間層以下にとって、やっかみの対象でなく、最初から自分たちとは違う人生を送る人々と見なされるようになっていった。
なのに、なぜいま「上級国民」バッシングが生じたのか。吉川は、人々が喪失不安のあまり「下降リスク」に過敏になる中で、「予測不能な緊急事態に遭遇しても、危機を回避できる特権をもつ人たちがいる」との疑いを抱いたことを挙げる。「やっかむべきは、豊かさやチャンスの多さではない。このリスク社会において、『何があっても落ちない』という特権をもっている(のかもしれない)ということなのだ」として、ある種の「下方平準化」が求められている、とみる分析はおそらく的を射ているだろう。