朝晴れエッセー

ときぐすり・9月20日

私はセコンド。かつてはサンドバッグだった。彼がコーナーに座るとすかさず水のボトルを手渡し体をほぐし声をかける。

彼のリングは自宅周辺500メートル範囲。日課のリハビリ散歩である。途中2、3度、押している歩行器に腰をかけて休憩する。

夫は定年後、次の職場で順調な第二の人生をスタートさせてから間もなく、突然の病に倒れ生死をさまよった。一命を取りとめたものの長い意識の混濁。身体の幾つかの機能にダメージを負った。8カ月後自宅に戻ってリハビリ生活が始まった。それは思いもよらぬ不自由な身体と心の葛藤との戦いであった。矛先は私に向く。戸惑いながらも私はサンドバッグになろうと思った。そう決めたら気持ちがすっと軽くなった。あるとき夫はノートに思いをぶつけるようになった。日に3度も4度も…『つぶやきノート』は15冊にもなる。

サンドバッグはノートに代ってもらって私はセコンドに昇格した。朝夕2回の散歩。目標は2000歩から4000歩に。カッカッとリズミカルに歩行器を押す夫の背中は時には軽やかに、時には重々しくやっと歩いていることもある。ここまでくるのに6年かかった。まだ時間はかかるだろう。コーナーから同じ方向を向いて広い空や飛行機雲、美しい夕焼けやツバメの舞うのを眺めて、風を気持ちよく感じるとき、こんな日がきたことを心から幸せに思う。

藤原 喜美江 69 神奈川県横浜市