〈湾岸戦争開戦から間もなく、クルド難民危機が始まった。イラクのフセイン政権に弾圧されていたイラク北部のクルド人勢力は1991年3月に武装蜂起したが、信じていた米軍の支援はなく、フセイン政権軍に鎮圧され、容赦のない報復を受けた。数万人が犠牲となり、約200万人のクルド難民がトルコやイラン国境にあふれたのだ〉
私は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に入って、2年もたっていない若手職員でしたが、クルド難民危機の対応にあたることになりました。
当時は危機の進展のスピードが速くて、国連も全然対応できず現場も混乱していた。UNHCRのジュネーブ本部からも応援部隊が来ましたが、アンカラの事務所にいた私を含めた数人の職員が最初にイラクとトルコの国境地帯に派遣されることになったんです。
携帯電話もない時代。人手が足りなくて、通訳もつけずに1人で行けといわれたときは、「まじ?」と思いましたね。
〈現場に赴くと、難民が多数避難している場所まで車でたどり着くのも困難だと分かった。トルコとイラクの間には約350キロの国境線があり、国境地帯は1千~3千メートル級の山々が連なっているのだ〉
この山に数千人いる、数百人いるといった情報を集めて状況を把握することが私の仕事でした。国境警備に当たっていたトルコ軍と、つたないトルコ語を駆使して交渉し、車に乗せてもらったりしました。道もないようなところを通ってようやくたどり着くと、ほとんどの難民は山の斜面の崖のようなところにかたまって、着の身着のままで避難していました。
ピンクや赤、黄色といった鮮やかな民族衣装が山の斜面に咲く花のように見えましたが、それとは対照的に彼らの顔はまったく表情がなかった。
壮絶な現場を1日中飛び回って国境地帯近くのホテルに戻り、電話で状況を報告する。危機の現場で指示を仰ぐ人はいなくて、自分の頭で一生懸命考えて結論を出さないといけない。これはその後の仕事においても、一番のトレーニングとなりました。大変だったのですが、すごくよい経験でした。今は、若い人を現場に出しても「どうしたら良いですか」と電話やメールをしてきたりするので、「自分の頭で考えなさい」といっています。
〈国境地帯での任務は1週間ほどで終わり、トルコ首都のアンカラに戻った。UNHCRのアンカラ事務所所長の補佐官に命じられたのだ。この時、「仕事上の師匠」ともいえる緒方貞子さんと初めて会った〉
緒方さんは1991年2月に国連難民高等弁務官に着任されたばかりで、トルコに視察に来られることになり、同行することになったのです。これは笑い話ですが、日本を離れて長かった私は当時、金髪にしていたので、上司に了解を得て業務中に美容院に行かせてもらい、黒髪に戻したんです。初めてお会いする日本人の高等弁務官に悪い印象を与えたらまずいだろうと思って。今の時代の若者だと平気なんでしょうが、私は真面目なところがあるんですよ。(聞き手 上塚真由)