虎番疾風録

監督候補に広岡氏と吉田氏、浮上 其の参69

虎番疾風録 其の参68

ストーブリーグの火は一気に燃えあがった。小津球団社長は10月13日、岡崎代表と大阪・梅田のホテル阪神で善後策を協議した。問題は中西監督の辞意の「固さ」。説得すれば翻意するのか、それとも無理なのか―。所属していたスポーツ紙に「進退伺」ではなく、はっきり「辞任」と書かせた以上、後者とみるのが常識的だった。

中西の辞任の理由は単に成績不振だけではなかった。5月にブレイザーの後を受けて監督に就任して以来、わずか5カ月の間に体重が10キロ以上も減り、体調不良を訴えて何度も東大病院で精密検査を受けていた。

「不成績で辞めたいというのなら私も納得しない。不成績はフロントを含めた全体の問題で、一番おわびしなければいけないのは私なんだ。ただ、健康面での問題で体が続かない―といわれたら、それを無理にやらせるわけにはいかない」

小津社長の立場は微妙だった。慰留する一方で、それが不調に終わったときのことも考えておかなければならない。「その点の情報収集はやっている」という談話はマスコミを「次期監督」報道へと向かわせた。

候補に挙がったのは広岡達朗と吉田義男。奇しくも5年後の昭和60年、2人は西武と阪神の監督として戦うことに…。人の運命とは不思議なものである。

広岡は53年オフ、小津社長が後藤監督の後任としてリストアップした「監督候補」の一人。当時、ヤクルトの監督として「日本一」になった直後だったが、球団フロントや本社首脳との折り合いが悪く、「退団」を決意していた。ところが周囲から「日本一監督をクビにしてはイメージが悪くなる」という声が起こり、急転残留。だが、確執は続き、54年8月に「広岡騒動」で退団。評論家として野にあった。

一方の吉田は52年に監督を解任され、評論家をしていた。同年、球団は一旦「続投」を発表した。だが、マスコミが「吉田監督に“信”なし」と批判。それが「吉田では勝てない」という世論にまで発展すると、球団はやむなく吉田監督を「解任」した。そのときの会見で「断腸の思いです。もう一度、機会があれば…」と語ったのが田中オーナー(当時は代行)だったのである。

筆者はその日、監督を追いかけ名古屋にいる監督の知人宅にお邪魔していた。(敬称略)

虎番疾風録 其の参70

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