地方は滅びず 逆転のモデル

KIMONO(1)「愚痴ばかりの人生は嫌だ」

百貨店プランタンで披露された伊藤若冲とアールヌーヴォーを組み合わせて染め上げた着物=2013年12月2日、パリ(高倉慶応氏提供)
百貨店プランタンで披露された伊藤若冲とアールヌーヴォーを組み合わせて染め上げた着物=2013年12月2日、パリ(高倉慶応氏提供)

 ■五輪の舞台、産業存続のきっかけに

 6月27日。シンガポール首相、リー・シェンロン(67)は、大阪市内のホテルロビーで息をのんだ。

 出迎えたホテル支配人の横に、和装の女性がいた。鹿児島・奄美の伝統織物「大島紬(つむぎ)」で作った着物には、同国の観光名所「マーライオン」や国花のラン、巨大IR施設「マリーナベイ・サンズ」が大きく描かれていた。

 「素晴らしい歓迎を受けた。日本の職人技とシンガポールの光景やシンボルが見事に融合していた!」

 リーは翌朝、ツイッターに写真を添えて投稿した後、20カ国・地域(G20)首脳会議に出席した。

 着物は「KIMONOプロジェクト」が手がけた。

 生活様式の変化で、着物市場は縮小を続ける。どこも産地は瀕死(ひんし)状態だ。

 このままでは日本人の生活を彩ってきた着物文化が、歴史の一コマとして記録される過去の存在になってしまう。

 福岡県久留米市の呉服店、蝶屋の3代目社長、高倉慶応(よしまさ)(51)は、そんな運命に抗おうと決めた。

 高倉は、2020年東京五輪・パラリンピックで参加国をモチーフにした着物を披露する目標を掲げ、平成26年にプロジェクトを設立した。

 「五輪で産業として存続するきっかけをつくる」。高倉が一人で始めた挑戦は、全国の産地が関わるプロジェクトに成長した。

 これまでに166カ国の着物が完成し、G20をはじめ、8月のアフリカ開発会議(TICAD)などの国際会議で披露された。来春には、213の国・地域の着物がそろう。

 活動の原点は、フランス・パリにあった。

 ■美の極致

 2013(平成25)年12月2日。高倉はパリの老舗百貨店プランタンにいた。

 最上階のカフェレストラン、「ラ・ブラッスリー・プランタン」で、フランス内外のデザイナーによる日本の織物や染物を使ったファッションショー「サクラコレクション」が開かれるのだった。

 コレクションを企画した出版社社長の田畑則子(48)が、高倉を誘った。高倉は、自らの価値観を試す好機と考えた。

 着物は美しい。細い糸を織り、色鮮やかに染める。代々の職人は、伝来の技法の上に、新たな手法・作風を取り入れ、次代につなぐ。繊細な技術を文字通り紡いできた。高倉はそんな着物を愛している。

 だが着物は普段着から、成人式や結婚式といった非日常の装いへと追いやられた。きものと宝飾社(京都)によると、着物小売り額は昭和56年の1兆7800億円をピークに、平成30年には2875億円と、6分の1に減少した。

 右肩下がりの業界では、工芸品と呼ぶべき繊細な商品の居場所はなくなり、安価な物が幅をきかせるようになっていた。

 「パリは芸術や文化で、世界トップクラスの才能が集う街だ。その最高の舞台に、出来うる限りの着物で挑戦しよう。そこで評価されないなら、私の信じる美しさが評価される場は、きっとない」

 高倉は、13着を持って渡仏した。

 和風、洋風それぞれ6つの着物を用意した。さらに「とっておき」を制作した。

 和と洋の合一だった。片身に江戸時代の絵師、伊藤若冲(じゃくちゅう)(1716~1800)の画風で、もう片身には、19世紀末から20世紀初頭にかけヨーロッパで流行したアールヌーヴォーの画風で、ボタンとバラを描いた。

 1着に複数の画風を描く場合、配色などで明確に区別をつけることが多い。しかし、高倉はそうしなかった。

 生地の色は青で統一し、2つの画風は、背中で1つになる。花が咲く1本の枝をたどっていくと、いつの間にか若冲から、アールヌーヴォーへと変化する。

 「若冲とアールヌーヴォーは、写実性や曲線の巧みな表現など類似点が多い。溶けあうように、共存できるはずだ」

 「奇才」とも評される若冲は、西洋画の手法や顔料を取り入れた。アルフォンス・ミュシャに代表されるアールヌーヴォーは、浮世絵の影響を受けた。親和性は高い。

 高倉の狙いを、京友禅の匠が、細やかな染めで表現した。時代を超えて、和も西洋も取り込む。その包容力、奥深さこそが、高倉の考える着物の美しさの極致だった。

 高倉の着物はまず、コレクション第1部の前座で披露された。芸術家やファッション関係者ら100人以上が招待されていた。

 ■パリの日本人

 結果は空振りだった。拍手はまばらで、反応はさえない。

 「単なる民族衣装のショーを、なんでわざわざやるんだ?」

 直接、そう言われたわけではないが、そんな冷ややかな視線を感じた。

 「和」が物珍しかった江戸時代や明治初期ならいざ知らず、現代のファッションや芸術に関わる者にとって、着物それだけでは、新鮮さを覚える素材ではなかった。

 自信があっただけに、高倉のショックは大きかった。ふがいなさや悔しさ、悲しさが入り交じった。

 第2部まで、20分ほどあった。

 「このまま終わらせたくない。しかし、どうすれば良いか」。悩む高倉に、田畑が助け舟を出した。

 「冒頭で少し、話をされたらどうですか。せっかく良い着物なんですし…」

 見るだけで分かってもらえないなら、言葉で伝えよう。単純な話だった。

 2部の幕が上がった。

 「日本とフランスの歴史が詰まった着物を用意しました」

 高倉は切り出した。通訳の言葉に、観客は「ん?」とわずかに身を乗り出す。

 高倉は、若冲とアールヌーヴォーを組み合わせた図柄について解説した。着物を制作した京都の老舗染元、千總(ちそう)とパリの縁も紹介した。千總は1900(明治33)年のパリ万博に参加し、大賞を受けていた。

 「110年前、日本人がパリから持ち帰ったデザインが今回、パリに帰ってきたんです」

 単なる遠い国の民族衣装ではなく、自国の歴史を込めた物語。観客の目の色は、明らかに変わった。

 1部と同じ13着の着物に、割れんばかりの拍手が送られた。中でも、高倉が特別に用意した1着は、大人気だった。スマートフォンのシャッター音が鳴り響いた。ショーが終わっても、撮影を求める列は絶えなかった。

 開始前に「ショーが終わったらすぐに片付けてくれ」と言っていたプランタンのスタッフは、「写真を撮るから、ゆっくりして良いよ」とコロリと態度を変えた。

 「美しい着物と物語を組み合わせれば、大きな感動を与えることができる」。高倉の呉服店主としてのプライドは、満たされた。

 ■ワンワールド

 ただ、業界の将来を考えると心は曇った。

 パリのコレクションの3カ月前、国際オリンピック委員会(IOC)は2020年の五輪開催地に東京を選んだ。日本中がわいた。

 着物業界も五輪を商機として、いくつかのプロジェクトが水面下で動き始めた。高倉に聞こえてきたのは、生地にインクジェットプリンターで柄を印刷するような、手軽な着物を売るたぐいのものだった。

 安価で手軽な着物を否定する気はない。

 だが、五輪という晴れ舞台で、そんな着物が使われれば、高倉が大切にし、パリでも高く評価された美しい着物は、完全に居場所を失ってしまうだろう。

 「それじゃだめなんだ。業界全体を巻き込んで、参加国の歴史や文化を取り入れた、美しい着物を制作しよう」。そんなアイデアに至った。

 五輪の舞台では、どんな物語が説得力を持ち、人の心を動かすのか。高倉は自問自答を重ねた。

 「相互理解と友好の精神を養い、平和でより良い世界の建設に貢献する」。五輪憲章も何度も読んだ。しかし、すとんと胸に落ちる答えは、なかなか見つからなかった。

 ひらめいたのは、突然だった。

 各国の着物を身にまとった人が、手をつないで輪を作る。世界に向け、平和と友好のメッセージを発信する-。大型連休中の平成26年5月4日、こんな情景が高倉の頭に浮かんだ。

 探し求めていた物語だった。ジョン・レノン流に言えば「イマジン、ワンワールド(想像してごらん、世界はきっと、ひとつになれる)」。高倉は今も昔もビートルズの大ファンだ。

 想像を実現するのは困難を伴う。少なく見積もっても、億単位の制作費がかかる。蝶屋だけで負担できるはずがないし、五輪で採用される見込みもない。

 だが、言い訳ばかりで何もせず、後になって愚痴をこぼし続けるだけの人生は嫌だった。

 日本、そして世界の人々の心を動かすプロジェクトが、産声を上げた。 (敬称略)

                   ◇

 地方には、人口減少や産業の縮小にも負けず、衰退からの逆転を目指して取り組む人々がいる。その物語を紹介する。

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