虎番疾風録

ブレイザー-穴吹-杉浦…名門復活ならず 其の参62

虎番疾風録 其の参61

“爆弾発言”から9日後の10月14日、野村は球団に電話で「発言には行き過ぎがあった」と伝え、謝罪の意を表した。球団もこれを認め、『野村騒動』は一件落着。そうした中で「広瀬南海」は誕生したのである。

それから3年…。時を昭和55年に戻そう。戦いに敗れた広瀬監督は10月6日、大阪・難波の南海電鉄本社に川勝オーナーを訪ね、辞表を提出。川勝オーナーは「長い間、ご苦労さん。ホークスを育て、ホークスの監督としてプロ野球のためによく努力してくれました」と広瀬の手を握り、労をねぎらった。

「名門・南海ホークス」の再建―は、広瀬監督の辞任前に始まっていた。シーズン半ばの8月29日、川勝オーナーは突然、森本球団代表の「更迭」と塩見球団常務の代表昇格を発表した。

なぜ、こんな時期に? と首をひねる報道陣に、川勝オーナーは「むしろこの時期に代表を更迭した決意を理解してほしい」と語った。それは、オーナーの「名門復活」にかける気迫の表れだった。

51年に球団代表に就任した森本は52年、自ら「野村騒動」を主導し、監督の退団や江夏、柏原のトレードという〝荒仕事〟を推進。「これは南海の大革命である」という名言を吐いた。けれど成績は悪化の一途をたどった。55年も前期は5位。後期も8月28日現在で8勝26敗2分け。勝率・235で最下位。

川勝オーナーもこれ以上、放っておけなかった。ついに森本体制に「断」を下した。そして、広瀬の後任監督に招聘(しょうへい)したのが、52年に野村監督とともに南海を去ったブレイザーだった。

「南海の選手、コーチとしての経験もあり、彼の野球理論を高く評価している」。川勝オーナーにはやはり、深い信頼関係で結ばれていた野村を心ならずも切ってしまった―という〝後悔〟があったのだろう。

南海の低迷は歯止めが利かなかった。ブレイザーから穴吹-杉浦と監督が変わっても成績は万年Bクラス。スター選手もおらず球団経営も火の車。「オレの目の黒いうちはホークスは絶対に売らん!」と公言していた川勝オーナーが63年4月23日に死去すると、球団売却の動きは一気に活発になり、同年9月、ダイエーへの球団譲渡が発表された。九州で「ホークス」は復活した。だが、大阪の人たちが胸躍らせたあの強い「南海ホークス」は、もう記憶の中にしかいない。(敬称略)

虎番疾風録 其の参63

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