「鶴岡元老にぶっ飛ばされた」という野村の爆弾発言以来、マスコミは2人の「確執」を探した。
「野村が監督になるとき、鶴岡さんが〝アイツに監督ができるんか?〟といって笑った」「かわいいまな弟子の広瀬を監督にしてやりたかった」など。だが、平本先輩の意見は違った。
「鶴岡さんはえこひいきするような人やない。誰にでも平等に怒ったり褒めたり。そりゃあ、口は悪かったがな」
若いころの野村は広瀬と同じ鶴岡監督の“叱られ役”。投手が悪くとも「ノム、お前がボールをポロポロするからや」と野村が叱られた。
「ノムさんは内にためてしまうタイプやった。逆に広瀬さんは“また怒鳴られたわ”と笑って済ませられる性格。だからノムさんが不満をためた―とは思わん。ノムさんは寂しかったんやないかな。鶴岡さんにかわいがられる広瀬さんへの嫉妬みたいなものがあったと思う」
野村を見いだしたのは鶴岡監督だった。野村が通う京都・峰山高の野球部部長から「ウチに野村というすごい子がいます。一度見てやってくれませんか」という手紙をもらい、西京極球場まで試合を見に行ったのが出会いだ。
昭和29年、野村は南海にテスト入団。そして3年目の31年、ハワイキャンプで、有名な『ビンタ事件』が起こる。当時、ブルペン捕手としてキャンプに参加していた野村は後年、こう回想した。
「先輩らは練習よりハワイを楽しんどった。ワシはそんなお金もないし毎晩、宿舎でバットを振るだけ」
キャンプ最後の日、〝今日ぐらいは〟と、野村はハワイに住んでいた同僚の親類の家に遊びに行った。食事をしトランプに興じ深夜になった。そこへ「早く帰ってこい。監督が怒っとるぞ」の電話が入った。
「ホテルの冷たいコンクリートの上に正座させられたよ。鶴岡監督から『半人前のくせに、夜遊びなんかしやがって!』と怒鳴られ、ビンタを食らった。オープン戦でホームランも打って、アピールしたのに、もうこれで終わりや…と泣きたい気持ちになった」
ところが、帰国して、羽田空港で取材を受けた鶴岡監督が「ハワイキャンプは大失敗やった。ただ、唯一の収穫は野村に使えるメドが立ったことや」と語ったのである。
「監督は見ててくれた」。20歳の野村は心から感謝した。(敬称略)