誇り-歴史に挑む15人へ

(2)「日本ラグビー、世界に発信」第1回W杯主将・林敏之さん

ラグビーW杯 日本-スコットランド トライを決める林敏之、左は大八木淳史=1989年(平成元年)5月28日、秩父宮ラグビー場
ラグビーW杯 日本-スコットランド トライを決める林敏之、左は大八木淳史=1989年(平成元年)5月28日、秩父宮ラグビー場

 今から32年前、ニュージーランドとオーストラリアで共同開催され、ニュージーランド・オールブラックスが頂点に立った第1回ワールドカップ(W杯)。この大会で、世界に挑む日本代表を主将として率いた。

 「当時は、『W杯という世界規模の大会が本当にできるのか?』というのがラグビーに携わるものの正直な感想だった」。だが、開幕すると、日本代表は世界の本気を初めて肌で感じることになる。

 予選初戦の米国戦。「勝てる」と言われる中で臨んだが、ミスが響き3点差で敗北。その後、イングランド、オーストラリアという強豪に屈し、そのまま3連敗に終わった。「どんなメンバー、コンセプトで試合に臨むのか。大会に入る前である程度勝負は決まる。いま思えば、米国戦に照準を絞りきれなかった」

 それは、全員がアマチュアだった当時の日本代表の限界でもあった。ラグビーは長らく「アマチュアスポーツ」とされ、日本代表も企業のラグビー部に社員として所属する社会人と大学生で構成。ラグビー人気も早稲田大と明治大の「早明戦」に代表される学生ラグビーが中心だった。

 所属チームを優先して代表を辞退する選手もおり、現在のように、W杯を見据えた代表の長期的な強化は難しかった。「遠征前になると残業が忙しくなる選手もいたし、練習も人が足りなくて監督が入ることもあった。そういう時代だった」

 4年に1度開かれるW杯は今回で9回目。この間、1995年にラグビーの国際統括団体はプロ化を意味するラグビーの「オープン化」を宣言した。その流れに後れを取った日本だが、2003(平成15)年にはトップリーグがスタート、今では海外のプロリーグでプレーする選手も生まれるようになった。

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